2018年12月31日月曜日
近況
昨日から時間が出来て読書している。
何かこれだけでも正月は寝正月になりそうな気もしてくる。
小説と人工知能と数学が今の所の読書である。
短歌と俳句も順調である。こんな時ぐらいが山なりのように思う。
一眼レフの充電を今やっている。
計画通りにいくのか準備だけはしておこうと思っている。
今年は全部はきだした。新年はインプットしたい。
静かになるのも仕事かなと思う。
あんまり宿題も少なくなりつつある。
それぐらい孤軍奮闘していると思う。私自身あんまり期待されていないと思う。
それでもここまで来たのは時間だと思う。
そんなに仕事の時間が有意義じゃあないデフレの時代である。
もっと技術が中間層に知れ渡ってる気がしない。
日本が空洞化している。それでも私は明日のために備えている。
出来るだけ情報を行き渡るにはどうしたらいいか悩んでいる。
ホームページでやる事はやってても実現に程遠い。
正直な話そんな手前トランプ大統領のフェイクニュースには少し共感する。
ちゃんとマスコミが機能しているように思えない。
私達の知らないことが多すぎるように思う。
なのでテレビが全てのように思えなくなっている。
それぐらい時代が進化しているのかもしれない。
何か真実はもっと別な所にあるような気さえしてくる。
それぐらいテレビが非現実的である。芸術とは何なのか悩ましい問題である。
俗世とはそういうものかもしれない。
何かあきらめに似た心境である。それでも時代は進む。
私にあるのは一応前進である。
それでもあしたは元旦
ボチボチやりたい。
<<追記20181231end
2018年12月30日日曜日
近況
今日の午前中は洗濯物整理してその後墓参りとお布施とあいさつをした。
その後買い物して帰った。
あんまり何を言ったらいいのかわからないけど
自分の気持ちが大事かなと思った。
ようやく今日の午後から時間が出来そうである。
昨日今日と忙しかった気はする。良く汗をかいた。
それでも小説と人工知能と外国語と古文ぐらいが待っている。
昨晩はヤマダ電機の営業日とか地平線の太陽と月が大きくなる事とか
国立天文台で元旦の日の出を調べた。
一眼レフの説明書を今日の午前中少し読んだ。
初日の出が初写真になりそうである。
昨晩寝る前に短歌と俳句を作った。あんまりそんな事ないだけに忙しかった気はした。
とりあえず元気そうに新年をむかえたい。
やがて来る時代のために生きたい。
何かそれだけで明るい未来がやってくる気がする。
輝かしい日本がやってくる。何も恐れる事は無い。それが私の万感の思いである。
そういう未来を切り開いてもらいたい。
そのためだけに生きている気がする。
それでも来年もやる事多くて大変な気分ではある。
当分仕事がどうとかの気分じゃあない。それが私の使命である。
何となくそれがデフレの仕事ように思う。何かすべてが消化試合である。
もっと色んな価値を探さないといけない気がする。
その価値に魅力を感じるのか感じないのかが勝負のように思う。
私はあんまり利益を出す事に消極的である。
利益だけが仕事じゃあない気がするからである。
むしろコンテンツの方が面白い。
それだけにあんまり仕事やっててコンテンツが良くなる気がしない。
日々の生活にこそコンテンツがあるように思う。
そんなこんなで私には私で五分の魂があるかなと思う。
それで私は私にかけている。あんまり私は他人にかけない。
それが私の本音であり他人に対しても自分にかけて欲しいと思っている。
そのために今日はなかなか難しい対応だった。
今日はそれと妹が帰ってくる。昨日一応プレゼントを用意した。
どう思うかわからんけど私なりの誠意である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181230end
2018年12月29日土曜日
追伸
行有--->>行雨--->>行月
来年から行月でいこうと計画してます。
雪月花とか花鳥風月とか考えたら色々バリエーションあるけど
新陰流みたいに陰の部分を出したいなあと思ってます。
そういう意味では行有ははずれてた気もします。
むしろ行空とか行無とかの方がコンセプトに合ってたけど
なぜそうしなかったのか忘れてしまいました。
なんとなく呼び名が良く聞こえなかったように思います。
とりあえず三語だったのが四語にして新年をむかえようと思います。
名前は七語か五語にするのが良いような気もします。
なので自分の名字には四語は合っていると思います。
それでも西行を考えると名字はいらない気もする。
三語の場合名字は二語か四語になる。そうすると私の名字は使えなくなる。
三島は三語だから三島木とかして一語加える必要が出てくる。
私の名字も一語加える事が出来るけど脇田だから何を加えるか難しい。
西行のように名字はいらないかもしれない。
そんなに私が仏道に入っているわけでもない。
日蓮さんより物理法則の方を信じている。
物理法則があらゆる分野に派生するのをのぞんでいる。
そういう科学大系が世の中を明るくすると思っている。
それは一分野の仏教も同じようにしか見ていない。
いかんせん時代が違いすぎる。昔と同じように今の時代は見れない。
それが正直な気持ちである。それでも伝統を伝えなければいけない。
それでもそこに普遍的な人間の生き方があると思う。
それが私に行を使い続ける理由がある。ある意味菩薩行でもあるわけである。
何か年末もやる事多くて大変だけど
ボチボチやりたい。
<<追伸20181229end
<<追伸No.2
自分が求める事が自分がやりたい事である。
人生はその格闘である。
なので自分の気持ちに付き合う事をおすすめする。
大学以外にもやる事はある。大学がすべてじゃあない。
プログラミングもそうである。それなので私にもやる事がある。
それが私の現実である。
<<追伸No.2end
雑記
大学の授業にある問題に対して二つ解法する課題が出た。
私の部屋でやると片方がつまんなくなってしまう。
それでそれと異なるものを片方に解法して提出した。
そしたら評価は可だった。
授業で言ってた先生の頭は
私が面白く感じ無かったことまで頭に無かったらしい。
なんか他人の解法を良いとこ取りしたと思ったらしい。
それが私に認識出来た。
つまんないから別々なものを取り上げて課題を提出したのである。
それが先生の頭に無かった。
本当は私が先生に訴えた方が良かったかもしれない。
私は馬鹿馬鹿しいからあきらめた。
それも友達に言った方が良かったかもしれない。
友達にも秘密にしてしまった。
友達からその後その先生の良いうわさは聞こえなかった。
私にはエゴはエゴになったように聞こえた。
こんな話今更どうなるのかわからないが最近思い出した。
思ったように課題がいかないように
イレギュラーに良い方にいくことあるのか考えさせられる。
課題一つ思ったようにみんないかなかった気はする。
なんかそれはそれで人生を感じる。
根底にあるのは今がすべてじゃあないと言うことである。
私が今どうしたいのかと言うことである。
それだけのみに過去現在未来がつながる気がする。
それに真摯に付き合った結果が今のように思う。
それが私の大学時代のふるまいになってるように思う。
関心はその授業に無かった。
それが私の可につながったのかもしれない。
そういう意味では色んな縁にふりまわされている。
その割には良くやっている。
やり過ぎ出来すぎである。それでも道のりは長かった。
それが時代のなせる技だろうと思う。
ボチボチやりたい。
2018年12月28日金曜日
近況
今日は仕事最終日だった。とりあえず仕事は何事も無く新年を迎えそうである。
誰が頑張っているとかと言うよりどうしたら良いのかの方が問題である。
そういう意味で男も女も無責任だと思う。
アドバイスさえ出来ない関係である。それは私も含まれる。
そんな力が私には無い。そんな暇もない。無力感で包まれている。
せいぜい出来るのは身内ぐらいしかない。
そんな手前あんまり無責任な事言えない。
それが私の本音であり頑張っているのは何のなぐさめにもならない。
現実問題そこまで付き合う義理も無い。
どうしたら良いかのアドバイスさえ困ってしまう。
なので頑張っているからで責任を果たせる気がしない。
なので私としては無言でしかない。結局どうしようもないというのが実感である。
そもそも私自身でさえどうしたら良いかと言う問題がある。
そんなに他人にかまってられない。
他人がどうなるより私がどうなるである。
なので頑張っているからどうにかなるものでもない。
私には私に限られた時間がある。あんまり他人の事気にしている場合じゃあない。
そんな付き合いが出来ない以上無責任な事言えない。
それが私の現状であり他人を救えるほど私の現状は厳しい。
それが私の病状である。私に他人を救って欲しいと願う仕事はやってこない。
本当はそれが可能な気はするが私自身はそんな環境にいない。
事実上不可能である。もっと他人の色んな力を協力してようやく実現する。
こんな庶民の暮らしでは私としてはありえない。
まず私を救う事の方が先決である。そういう病状をかかえている。
こんな世に誰も手段を講じない。
出来る事は山のようにあるのに無策である。
そんな無責任を私は無言でしか対応出来ない。他人を救えるほど力が無い。
そんな無力感がただよう。本当は私がプログラムの講座でも開けたらいいのだけど
それも私には力が無い。
他には数学とか物理とか明るい話が出来たら勇気も持てる気がする。
私からそんな話を聞きたい他人もいない。
本当は何か使えそうな話をいっぱいすれば希望は生まれるとは思う。
だけどそんな力とそんな他人とそんな境遇にいない。
ひたすらに私自身の心配が大きい。それで他人が頑張ってても私には力が無い。
それが私の責任感である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181228end
短歌十首更新 ---> http://wakkii.umu.cc/poem_road/2018_12.html
---> 時雨にも負けてはならぬ仕事ありやるだけやってまたあしたかな 行雨
---> 冬の空めがけて走る電車あり仕事のために思いが募る 行雨
---> 何となく用事ばかりが先にありゆっくり出来ぬ思いが募る 行雨
---> いつまでも気の済むように仕事するそんな事さえ問題ばかり 行雨
---> 色々と思い思いの師走なりなるようになる言い聞かせても 行雨
---> 大場駅待ち時間あり日に当たる冬の陽気に包まれるかな 行雨
---> やり残す雑務残してどうするか頭の中は色々かしら 行雨
---> 師走にも色んな事が夢の中正気に戻る時代をのぞむ 行雨
---> 帰宅中気になる事を思い出すなるようになる言い聞かせても 行雨
---> 叫んでも日本語どこも通じない一体私なすすべもない 行雨
/*ひたすらに*/
/*仕事を控え*/
/*読書あり*/
/*なるようになる*/
/*思いを込めて*/
/*やる事も*/
/*コツコツやって*/
/*またあした*/
/*くり返すうち*/
/*山のようなり*/
俳句九句更新 ---> http://wakkii.umu.cc/poem_road/2018_12.html
---> 夢の中沼津をめぐり冬の雨 行雨
---> 冬の空香貫山にも景色あり 行雨
---> 港湾に活気が出ては人の列 行雨
---> 冬至にも明るさ戻る期待かな 行雨
---> 年忘れ元気残してあらたまる 行雨
---> 冬の雨色んな事が夢の跡 行雨
---> 峠にもみかんがなって笑顔かな 行雨
---> くもり富士薩埵峠で拝むかな 行雨
---> おでんにもホッと一息救われる 行雨
/*さびしさの*/
/*クリスマスイブ*/
/*過ぎるかな*/
/*聖夜から*/
/*解き放たれる*/
/*仕事かな*/
2018年12月27日木曜日
雑記
正直あんまり書き込みたい事もない。
それでもなんかプログラムについてもっと仕事になってもいい気がする。
それが何か自分自身取り残されている気がする。
まわりにそんな人いない。それでいい気がしない。
まわりにそんな人がたくさんいるのが教育の役目のように思うけど
それが全く感じられない。ほとんど既得権益になっている。
それはそれで教育の失敗のように思う。
教育も受けないでただひたすらに既得権益になっているように思う。
それが何か時代に追いついていない気がする。
もっとまわりにプログラムをやる人がいてもいいのにそうなっていない。
それが妙に引っかかる。時代に取り残されている人が大勢いる。
それがそのまま既得権益である。
そんな時代でいいのか私にはチンプンカンプンである。
そうやって格差が広がっていく気がする。それが私の危機感である。
こんな状態で中流が多いと言えるのか私には理解不能である。
取り残されている人が多いように思う。
そんな手前今までの教育でいい気がしない。もっと斬新に変えていくべきだと思う。
必要な教育が出来ていない。なんか今の時代に合っていない。
現状としてそんなに中流がたくさんいるように思えない。それが私の実感である。
そんな手前なかなか今の時代は厳しい時代だと思う。
どうやってそんな厳しい時代を教育で変えていくべきだと思うのに
それもままならない。先生自体が旧態依然である。
今に時代に合った先生が必要である。
今までのままで良いと思っているから間違っている。
結局そんな時代にマッチした先生がいない。
私の大学時代もそんな感じがする。なので小中高も仕方ない気もする。
学校の上から下まで時代に追いついていない。
なのにあんまりそういった格差を言う人もいない。
このままだと日本は取り残されると思う。
それが私の妙に気になる感覚である。こんな日本でいいのかチンプンカンプンである。
<<追伸
それでも東芝テックの子会社辞めたのもガッカリしたからである。
自分で勉強した方が早い。それが私の結論である。
いたるところに教育の弊害があらわれている。
もっと教育者なら責任を感じるべきである。
無責任だからこんなに仕事にガッカリするのである。
もっと手厚い教育ならこうはならなかっただろう。
現実は情けない仕事と情けない教育しか浮かび上がってこない。
それが私の認識する日本である。それで中流階級がプログラムしてたら文句は無い。
それも皆無である。時代が追いついていない。旧態依然で当たり前だと思っている。
変わらない事を是としている。それ自体古くさい脳みそである。
もっと時代に対応して頭を使う事を考えるべきである。
頭を使わない事を旧態依然なんてナンセンスである。
もっと頭を使う事に集中した方がいい。
それなのに格差が広がっているのは教育のせいである。
もっと先生は反省をした方がいい。人々は無責任で今の時代が成立している。
それが私の警告である。
<<追伸end
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181227end
2018年12月26日水曜日
近況
完璧主義とか実用主義とか言うより人生運転である。
ゴール目指して運転するだけである。
仕事もそうであるただの運転である。
勉強もそうであるただの運転である。
それがやがて完璧になり実用になる。それだけのために運転している。
それがそうならないのは努力が足らないだけである。
他人の努力より自分の努力しかない。それが自分の役目である。
自分がどういう努力をすべきかただひたすらに運転である。
それを飛び越えてエラくなっても迷惑である。
自己努力もない他人の話に迷惑している。
他人がどんな努力をしているかという話なんてどうでもいい。
自分の気持ちと自分の努力と自分の会話を真剣に考えて欲しい。
それが自分の役目である。その線路に脱線しても私にはチンプンカンプンである。
何でそこで他人が出てきて自分が出てくるのか私には理解不能である。
要するに利害関係のバランスだけで運転が無い。
そんな話を毎日聞いてるだけで病気になりそうである。
そんなんよりもっと自分が何を考え何を努力し何を実現してどう思うのか
自己表現すべきである。
それもなく他人が出てきて自分が出てくる。
良いところしか表現しない。これじゃあ支離滅裂である。
ひたすら色んなものを運転して継続していくからこそ話がつながるのである。
それが無いから完璧主義にも実用主義にも遠のくのである。
ひたすら継続としての運転である。
そのうち完璧主義にも実用主義にもなるのは運転が成功するからである。
そんな自分の運転も無く他人が出てきて自分が出てくる。
私はそんな話を聞くと気がおかしくなりそうである。
私には疫病神にしか思えない。
そんな自分の運転が不可能な人が問題を起こしているぐらいしかない。
それでどうして全員のバランスを考える必要があるのか私にはわからない。
自分の運転を放棄している人がなんでエラくなるのかわからない。
上司にあるのはただあるのは良い結果を結びつけるだけである。
全員のバランスなんて誰も考えない。
求めるのは全員の結果を求めるのであってバランスでは無い。
それなのにエラくなろうとして自分の運転もしないで全員のバランスを求める。
そんな迷惑な奴を私はどうする事も出来ない。
そんな迷惑な奴を大阪は作り出した。教育の失敗である。
私も高校まで大阪に行ったが大学は大阪にいられなかった。
結局利害対立したからだろうと思う。それに比べて山口や福岡は天国だった。
私は大阪府立三島高校卒であり大阪に三島と言われるところがある。
大阪府三島郡島本町にも小四の夏まで住んでいた。
三島由紀夫は静岡県三島市から来ているようである。
そんなこんなで三島には私にはそれなりにつながりがある。
私自身こんなにもめるとは思っていなかった。
それぐらい私の運転がうまくいき過ぎているのかもしれない。
うまくいき過ぎというよりそんな奴がいないのかもしれない。
ここまで運転で来ているのが奇跡である。
何かこれだけでも神様に選ばれている気はする。
それぐらい運転で努力したからぐらいしか私の感想はない。
それなのに私がズルしていると思われている。
個人がそんなうまくいくはずがないと思われている。
そして自分の努力より全員のバランスを考えたがる。
私はどうしたらいいのか迷惑でしかない。
教育方針変えて補正した方がいい。それが私の本音である。
ただ迷惑なだけである。社会生活からちゃんと考えた方がいい。
私はそんなのと関わりたくない。それが私の実感である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181226end
2018年12月25日火曜日
近況
昨日は少し雨降ってたけど草抜きした。
来週もやる必要がある。
掃除も少しだけした。昨日父に大掃除をするような事言われた。
今日は夕食の買い物とティラミスを買って帰った。
昨晩は鶏肉を食べた。結構おいしかった。昨日は少しゴミが出てきた。
今晩少し処分するつもりでいる。
冬休みは小説と人工知能の読書と天候次第だが元旦に初日の出を初写真したいのと
家族の写真を正月にとっておきたいなあと思っている。
あとは短歌と俳句ぐらいである。
出来れば英語と古文もやりたい。さらにはドイツ語とフランス語の本を消化したい。
それぐらいの予定を立てている。
基本的に家にいる事になりそうである。さわやかウォーキングは六日からである。
新年はもっと落ち着いた年にしたいなあと思う。
今年はとりあえず自分のあるものをはきだした。
何となく再出発のように思う。頭にあるのは気長にやりたい。
あんまり急いでやってもいい事ない。実感にあるのはそんなに簡単に時代は進まない。
結局自分のペースが一番ベストである。
仕事も自分の健康と生活のためにやっている気はする。
仕事仲間のために仕事しているわけではない。それがなかなか理解してくれない。
利益が出るから仕事しているわけで仕事仲間のために仕事しているわけではない。
頭にあるのは協力して利益を出すぐらいしかない。
それが実現不可能なら仕事が成立しない。
そんな事が私に何の関係があるのかわからない。
ただあるのは利益出るなら仕事として成立している。
それを認めなくて仕事にならない気がする。問題があっても利益出てるなら成立である。
それが資本主義じゃあないかと思う。
何かややこしい理論なんていらない。それが私の本音である。
問題なんて二の次である。仕事として成立している。それが大事な事実である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181225end
2018年12月24日月曜日
雑記
私が他人に嫌われる理由は他人にとって私が私ではないからである。
そんな話を聞くほど暇人じゃあない。
要するに犯罪に近いしこの世界も理解できていない。
他人が思っている世界じゃあない。
それを私にはどうすることもできない。
なのに他人は他人の話に引きずり込もうとする。
私としてはナンセンスなのである。
それがわかってくれないから私は恐怖として文章を書いている。
私は私で色んな経験をしている。
そんな専門性もある。
決して巨人軍のような人生じゃあない。
色々説明を求められる人生だと思う。
それぐらい努力を重ねて一個人の特殊性が生まれている。
逆に得するのをやめて努力しているに近い。
みんなが理解出来る世界だけが世界ではない。
なので理解できない事もあっても私としては平気である。
私はそういう世界の住民である。
なのに私への誤解もストレスしかない。
理解できない奴がいるってだけである。
それを私にはどうすることも出来ない。
そんなんより愉快に生きたい。
愉快な仲間たちシリーズにしたい。
それがかえって私を悪者にしている。
楽しめば楽しむほど悪者になっている。
ここまで来るとあきれ果てるしかない。
つまらん奴がつまらんこと言ってるぐらいしかない。
そんな努力と愉快さと楽しさが誤解なんて私はどうしたらいいのかわからない。
ここまで来ると能力が違うぐらいしかない。
そんな世界と神様を誤認していると思う。
それでバカじゃあないと言うのはテストがそれなりにとれるからだろうと思う。
高卒ぐらいのテストができるんだろうと思う。
要するにテストが基準になっている。
ここでもテストが罪悪になっている。
テストさえ出来ればバカじゃあないになっている。
結局テストなんて幻想なのである。
それが上から下までテストが麻薬である。
まともな人間がわからない上から下までになってる。
会話も成立しないテストが基準になっている。
そんなこんなでみんな幻想を追っている。
現実はもっと違った形で今がある。
本当にくだらない学歴と職歴である。
バカがバカにならず
賢いが賢いにならないのがテストである。
そんな認識も東大や京大にはない。
本当に潰しにかからないと機能しない。
テストのために誰もバカと賢いの判断が出来ないのが問題である。
それがこの国のかたちである。
<<追伸
私としては自分の思いをありのままに書いている。
そうしないと私自身生きていけない。
それぐらいストレスがたまっている。
みんなには私にはそう言った現実が私にあるというだけであって
あんまり他人を批判したいわけではない。他人には他人の現実がある。
そして私には私の現実がある。ただの現実認識ぐらいしかない。
それがどうやって社会につながっていくのか私は見物人である。
それでも事実を事実として書くのは意味があるだろうと思っている。
そして色んなチャンスがあるはずである。
他人にはそんなチャンスをものにして欲しい。
そして私は私でチャンスをうかがっている。
ただあるのはテストは次のテストに重心を移すべきである。
いつまでもそのテストにこだわってもいい事はない。
私はそのためだけに書いているだけである。こだわりすぎるテストが問題なのである。
人々はそんなテストを大事だと思っているから間違っているのである。
要は次から次へそれが肝要である。それをバカとか賢い指標にするのは酷である。
それが如実にあらわれていると思う。そんな現実も見えていない人が多すぎる。
そのためだけに私は書いている。
テストより大きなもののためにテストをすべきなのである。
その一点に尽きる。
何のためにテストをするのか問われているのである。
<<追伸end
ボチボチやりたい。
2018年12月23日日曜日
興津駅からJRさわやかウォーキング
今日は興津駅から由比駅までで薩埵峠を越えて歩いた。
途中雨が降ってきたけどギリギリセーフぐらいだった。
沼津の千楽でカツ丼食べて
アトレでカニクリームコロッケと穴子の押し寿司買って三島駅で食べた。
一応私が外国語としてフランス語を視野に入れた話をしておこうと思う。
大学で第二外国語をやるとしたらフランス語かドイツ語である事である。
スペイン語ぐらいが例外じゃあないかと思った。
英語の次にフランス語の人口が多い事もある。
教養としてはフランス語とドイツ語の情報が多い事もある。
ヨーロッパ言語としてはフランス語やドイツ語の他に
スペイン語とかポルトガル語とかイタリア語とかあるけど
アラビア語と同じく情報量が少ない。
かえって韓国語や中国語の方が情報量が多い。
なんで外国語をやるのかと言ったら
気分転換と頭の体操と世界の大きさを知るためである。
そのために情報量も大切な要素だと思っている。
外国語の教養にドイツ語とフランス語両方というような小説を読んで
啓発されたのもある。
それで結局川を渡ってしまった。
私自身あんまり外国語を使う機会が無いのをのぞんでいる。
なのでどちらかというとネガティブ思考で外国語やっている。
それは英語にも言える。何か受け身で英語やっている。
そんなに積極的にやっていない。それでもやるのは恐怖感のような気もする。
それは数学にも言える。こんな大変な世界無いよなあと思ってやっている。
それぐらい世界の情報量は数学的にも言語学的にも膨大である。絶望するぐらいである。
それを大学入試ごときで判断するのは無理である。
もっと思っているより世界は大きいと私は思う。
それで高卒の春で私と東大生にどんな差があったのか私にはチンプンカンプンである。
私の方が基礎学力あったぐらいしか思いつかない。
結局入試のための入試であって
基礎学力のための基礎学力じゃあなかったというのが私の結論である。
それで私は今も置いてけぼりで時代が私に追いついていない。
これこそまさに社会悪である。悪質極まりない。
どこに正義があるのか私にはわからない。経済も実態にほど遠い。
無責任もほどがある。これではいつまでも他人は許せない。そういう状況だろうと思う。
これを国家権力としか申し上げられない。権力の権化である。
それをぶちこわす自由が必要である。
そんなくだらない奴が多すぎる。それがこの国のかたちである。
もっと大きな旅をすべきであって大学入試なんて意味が無い。
そんな認識にもいたらなくて東大やっているのなら大間違いである。
学歴も職歴も崩壊している。小さな旅に終止しているからとしか思えない。
それぐらい私にも時間が必要なのである。それは他人も同じだろうと思う。
あまりに忙しすぎて時間が無い。時間を作るシステムを作るべきである。
それは学校の先生も同じである。日本人全員にも言える。
なのに消耗戦をやっている。
こんな創造力の無い日本でいいのかもっと考えるべきである。
あまりに時間が無さ過ぎる。どうした時間配分が創造的なのか考えた方がいい。
せめて文章作るような時間ぐらい必要である。
それぐらい世界が小さくまとまっているから他人が許せないだけである。
世界が大きいのを知らないのは大学入試のせいである。
無責任もほどがある。もっと東大の使命とはなんなのか説明して欲しい。
ここまで来ると東大も京大も廃校にした方がいい気もする。
それぐらいぶっ潰しにいかないと東大も京大も機能しない。
それが私の本音である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181223end
2018年12月22日土曜日
近況
今日は昼間沼津のマルサンで本を探した。
目的は達せなかったけど別に新書を買った。
それはそれで無駄な買い物しなくて済んだ。
現物を見て用がたせないとわかった。
帰宅後アマゾンから本が届いてた。
そんなこんなでやる事だけは山のようにある。
家の中で新書も少し読んでいる。
短歌や俳句やってると共感型になっている気もする。
なので女の人だけが共感型じゃあない気もする。
ここまでこれたのも私の哲学である。
それが私の生活になっている。それが私の防衛力である。
それが私の責任感になっている。この重みは大切である。
それが他人の無理解により私の障害物になっている。
ただひたすらに私はまっすぐ生きたい。障害者としてもまっすぐ生きたい。
それなのに世間は私を引っ張り出す。もっと世の中を正常化すべきである。
それなのに反省もないままやりたい放題である。
無責任で悪質である。それでお金がまわっているのか私には理解不能である。
ちゃんとした仕事もないまま無責任で悪質である。
給料泥棒に近い。なんでそんな権力があるのか私にはわからない。
それが世の中の実態である。それなのに私は私の生活を防衛するしかない。
それ自体が犯罪である。それなのにやりたい放題である。
こんなに無責任で悪質極まりない。
それでなんでお金がまわっているのか私にはわからない。
経済が実態と違う形で成立しているとしか思えない。
権力という傘で無駄に無駄を重ねているとしか思えない。
真実と違う形で経済が成立している。それが私を無責任で悪質に思える原因である。
そんなんより私は私の生活をするしかない。
ちゃんとした仕事もなくそれが続いている。
実態にかけ離れて本当に世間は無責任で悪質である。
それが私の実感である。
冬休みは思い思いに本を読もうと思う。
ひたすら思い思いに読みたい本を読む。それが私の元気になるように思う。
いつもと違う時間を過ごすのも気分転換になる。それが私の目的にもなる。
ちゃんとした仕事が成立しないのは成果と努力がかみ合わないからだろうと思う。
みんな考えているようで考えていない。
日頃から考える習慣が無い。忙しいばかりで考えていない。
効率的のようで非効率である。人間立ち止まって考えるべきである。
それが大学院生も如実にあらわれている。
私が大学に出て十八年間かかってようやく冷静に考えられるようになった。
それぐらい立ち止まって考えないと考えたにならない。
忙しいばかりで考えていない。もっと冷静に考えるべきだと思う。
それが私の本音である。
それでも私にはまだまだやる事がある。人生そんなものである。
大学にいる事だけがすべてだと思わない。
それが私に無責任で悪質に感じる原因でもあるけど私を自由にさせている原因でもある。
もうそろそろトータルで考える時が来ている気もする。
ちゃんとレールに電車が走るように経済もそういう実態に合わせるべきである。
いくら何でも今のままでは目もあてられない。
<<追伸
例えば先生は体育とか図画工作とか実験の先生だけにして
あとは映像を流すとかして人員削減する。
つまりシステム化出来る不要な人員整理する。
もっと人を有効に使うべきである。必要な人材を明示する。
不明朗な人材を極力避ける。それにより有効な時間をたくさん生み出す。
それにより人材を流動的にする。
基本的に先生は生徒のサポートだけで何とかなるようにする。
こんなにシステムがいっぱいちまたにあるのに
生徒が自立しないでシステムは運用出来ない。
もっとシステムに柔軟に対応すべきである。大学も例外じゃあない。
<<追伸end
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181222end
2018年12月21日金曜日
ツイッターより+8 雑記
一応私の年賀状は終わった。父親の年賀状が残るのみである。
冬休みに日課をやり出すと言ったけどどうしようか迷っている。
小説を読もうか人工知能の本もそれなりにたまってて消化しきれていない。
自分がやりたい事が優先のような気もする。
そんなこんなで新年も女以外は期待感はある気はする。
今日は思いっきり寝るつもりでいる。
明日は雨らしいので草抜きも延期である。
片付けも一通りやって棚の整理が気になっている。
それでももっと整理した方が良さそうである。
どうしたら整理整頓出来るかゆっくり考えたい。
そんな三連休になれば良いなあと思っている。
今年一年よく頑張ったほめてやりたい。来年もそんな風になるようにしたい。
それなりに自分の時間に意義を感じている。
何かそれが大きくなればなるほどデフレになるような気がする。
もっと仕事に価値を感じないとお金の価値が上がらない。
それが世の中の実態のように思う。
価値のある仕事にしなああかんのにそうなっていないのは日本人の責任である。
いい加減な仕事にしかなっていない。
それが戦争の原因のように思う。それでも私には無抵抗である。
信号を出すしか私には手段が無い。ちゃんと仕事するのが難しい世の中である。
私は私でそうやって防衛するしか方法が無い。
もっと仕事の価値を上げていかんと先行き不透明である。
それが大人の役目である。それなのに私はあきれてものも言えないぐらいさめている。
無責任だらけだなあというのが私の実感である。責任感全く感じられない。
それで学歴職歴だなんてそんな権威どこにあるのか私には信じられない。
私にあるのは私の生活を守るぐらいしかない。
一人で時間使っている方が効率が良いなんて社会悪なのに
それが私の防衛力になっている。それが日本の仕事の現実だと思う。
もっと仕事せなあ本当に戦争である。ちゃんと仕事してないからこうなるのである。
色んな所で仕事が成立していない。仕事の意義が失われている。
それがデフレなんだろうと思う。お疲れ様でしたと思わない仕事なのである。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181221end
短歌十首更新 ---> http://wakkii.umu.cc/poem_road/2018_12.html
---> 帰宅する夜道とともに感謝して前進のぞむ家の中かな 行雨
---> 朝日から元気を込めて一歩ありつまらないものとんでいけなり 行雨
---> なつかしい京都旅行の一日目都会に見えて別世界かな 行雨
---> 報告し診察終えて不思議なりそれでも続く運命かしら 行雨
---> 方丈記書いた姿に感無量天変地異もなんのそのかな 行雨
---> 歩きつつ思い出深きところあり変化もあって関西かしら 行雨
---> 昔から別れを告げて歩き出すそんな思いがわきあがるなり 行雨
---> ありえない他人がいても他人なりみんな同じにならぬ原因 行雨
---> 旅の跡家の中にも冷静に何かが変わる思いあるかな 行雨
---> 旅の跡頭の中はリセットし力をためて歩き出すかな 行雨
/*やれるだけ*/
/*やっておこうと*/
/*やってみる*/
/*それでも続く*/
/*人生かしら*/
/*冬の夜*/
/*計画立てて*/
/*考える*/
/*ゆく先々が*/
/*夢の中かな*/
俳句九句更新 ---> http://wakkii.umu.cc/poem_road/2018_12.html
---> 日の短か影響受けて家の庭 行雨
---> 冬のある明るさどこか先がある 行雨
---> 日向ぼこ平和はどこかウソのよう 行雨
---> 冬帽子旅に出るなり役立たず 行雨
---> おでんにも力をためて歩き出す 行雨
---> 冬草に悩まされてるこまかさよ 行雨
---> 年末も用を済ませて進んでく 行雨
---> 大仁に別れを告げて冬の雨 行雨
---> 人ごみに伊豆長岡の冬のバス 行雨
/*師走にも*/
/*わけのわからん*/
/*女なり*/
/*冬の空*/
/*叫び散らして*/
/*通じない*/
2018年12月19日水曜日
近況
今日も仕事した。
漫然と仕事してもなかなか進まない。
仕事やろうと思わないと進まない。そんな事を車の中で言った。
簡単な仕事でもそうなのである。プログラムでも同じだろうと思う。
ましてや物理もそうだろうと思う。私としてはやり過ぎである。
それでもチャンスを逃すまいと頑張っている。
これ以上どうして好転しないのか私にはチンプンカンプンである。
それでも未来に備えている。そうしないとみんなが納得しないらしい。
なんでそんなものに影響するのか私には理解不能である。
罪なのは他人であって私ではない。そんな認識も出来なくて神がいるかと思う。
さぞかし神様もかんかんに怒っていそうである。
私はひたすらに無抵抗である。すべては神様次第である。
どうしてそんな正義が生き残るのか私には理解不能である。
結局どこもどいつも似たり寄ったりという事だろうと思う。
それが学歴や職歴に出ている。罪作りな世の中だなあぐらいしかない。
もうちょっとしっかりした人間いないのかと文句タラタラである。
そして正確な判断して欲しい。
どうしてそんないかれた判断が横行するのか私には信じられない。
このままいくと民主主義の危機である。
もう利害関係でしか世の中は動かなくなる。
それは人間のやる事じゃあない。人間が神を裏切っていると思う。
もうノアの箱舟状態である。そんな事を平気でやろうとするのはいかれている。
クレイジーである。そんなんよりしっかりした所を示すべきである。
私は私で努力した成果であって私のチャンスをものにした。
私にも権利があったように他人にも権利がある。
それを否定するのは他人の否定でもある。
なのにどうしてそんな偉い判断を仰ぐ必要があるのか私には理解不能である。
偉くならんと満足しない他人がいる。
それでバカじゃあ無いとか言われてもバカである。
何でそんな正確な判断も出来ないでバカじゃあ無いのか私にはわからない。
私は他人がしてやっているみたいな態度を信じられない。
他人が神様と間違えているとしか思えない。
私は私でひたすら努力しただけである。それぐらいしか思いつかない。
それが信じられないのは他人の能力であって私の能力では無い。
もうここまでくると能力が違うしかない。みんな似たり寄ったりだけど
バカと私だけは能力が異なる。それで終わりである。
それ以上何を述べる必要があるのかわからない。馬鹿馬鹿しいぐらいしかない。
そんな暇あったら努力している方がマシである。
もっと共通認識とはどうやったら生まれるのか日本人は考えた方が良い。
そんな認識さえ持てないから今の状態が生まれている。
能力が異なってもどうしたら共通認識が持てるかそれが未来の課題である。
そのために未来につなげていくしかない。それが今の現状だろうと思う。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181219end
2018年12月18日火曜日
近況
帰宅後年賀状を印刷した。その後少し片付けた。
段々年末らしくなってきたかなと思う。
もう来年の予定がある。買い物もそうだし福岡県にも予定がある。
私としては色んな話を聞きたい。それが私の俗世である。
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Windowsで
CreateProcess関数を使うとバッチファイルとかコマンドとか
exeの実行ファイルを実行出来る。
パソコンの何が便利かというとこの自動操作のように思う。
オートメーションなのである。
なんでも自動操作してしまう。それが人工知能にも影響している。
パソコンの出来る事が人工知能可能な気がする。
そんな事は当分先でも未来はやがてやってくる。
それでもあんまり仕事しているから知識がある気がしない。
自分で勉強している方が早い。そのため仕事なんて社会悪のように思う。
それでも一回そういう経験しているというのもあるとは思う。
だけどあと三十年にそれだけの仕事したい気はしない。
それぐらい私は仕事にがっかりしている。
所詮仕事なんてそんなものだと思っている。
-------------------------------------------------------------------------
今年も色々消化している気はする。
それでも来年も人工知能が気になる。
関数型言語も今年は良く本を読んだ。特にSwiftが斬新のように思った。
Common LISPも読んだりHaskellも読んだりした。
時間が無いとこうはいかない気もする。
外国語もたくさんやるようになった。アラビア語残して土日にやるようになった。
それも来年に持ち越しである。
年々エスカレートしていると思う。それも私の生活の勝利だろうと思う。
もちろん英語もやっている。最近は多読している。ヒアリングも時々している。
そんなこんなで私にチャンスはないかと思ってやっている。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181218end
2018年12月17日月曜日
近況
今日も帰宅後、色々片付けた。
色々気になる事もあったけど無事に過ぎた。
年末に向けやる事やっている気はする。
来年はどんな年になるだろうか?夢はそれなりにある。
夢のような人生を送りたい。何かそのために生きている気がする。
仕事のつまらない能力開発には参る。
何かそれだけで仕事に生きる気がしない。この四年間自分の時間を持てた意味はあったと思う。
それがまだまだ続きそうではある。仕事ばかりして何の得になるのか私にはわからない。
仕事のせいで自分を犠牲にしているのは事実である。
そこまで犠牲にする必要があるのか私には信じがたい。
その他にもやる事いっぱいあるのにそれが正解にならない。
何か社会が間違っているように思う。そうやって私は私で防衛している。
それが今の結果になっている。そしてこの四年間は正解だった。
時間の無駄が仕事になっている。そんな仕事を続ける限り社会は良くならない。
それが世相に出ている。三島市長選挙もそれが全然見えてこない。
従来の政治を続けているだけである。だから誰が当選しても同じである。
もっとどうやったらお金がまわるか誰も考えていない。
非効率極まりない。そんな仕事で社会はまわらない。誰が一番仕事をしているのか誰も知らない。
そうやって今の既得権益にしがみついているだけである。
悲しいけどもっと考える事たくさんあるようにしか思えない。
仕事が非効率なため色んなところに弊害が出ている。
それが今の社会だろうと思う。もっと自由に向かって飛んでいかないと取り返しつかない事になる。
そのために私の生活で防衛しているのだろうと思う。
今日も疲れた。
ゆっくりしたい。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181217end
2018年12月16日日曜日
沼津駅からJRさわやかウォーキング
今日はスタートとゴールが沼津駅だった。
香貫山と港湾と大型展望水門びゅうおがメインだった。
連れが一人メンバーが加わった。不確定要素がまた増えた。
それも楽しみのうちかもしれない。来週の一回で今年は終わりである。
途中雨が降った。予定外で庭の雑草は中止するつもりである。
なのでパソコンまわりを片付けようと思っている。
あとは選挙と録画である。
昨晩は録画見ているうちに寝てしまった。
あしたの決意もなかったので朝はあわててしまった。
朝は仕事の準備を間違ってしてしまった。
再度ウォーキングのバックを取り出した。
なんか前もって考えてないと大変だった。
平日は帰ってくる頃には暗くなっている。
なので草抜きは来週である。
そろそろ年賀状やる必要がある。粛々と年末にむかっている。
冬休みも楽しみである。
結局自分の時間が自分のお城である。
なんかそのために生きている気はする。
お金も必要だけど同じくらい時間も必要である。そんなバランスをとって生きている。
そんなに仕事が大事か考えるにそうでもない。
だけど生活費は大切である。その許せる線で生きている気がする。
それはそれで社会は罪悪である。
それでも仕方ない。それが私の運命である。
ボチボチやりたい。
2018年12月15日土曜日
大仁でJRさわやかウォーキング
今日は大仁から伊豆長岡の停留所までだった。
途中小雨が降ってた。
帰宅後父親の車で用を足した。
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昨晩メールに気づいて九大のボスが来年三月で退官するようである。
私としては貴重な二年間だったと思う。
幻聴で大変ではあった。修士修了時には寝たきりになった。
それでも何かためになった気はする。
九大のボスがどう思うかより私のためになるか考えて行動しろと父に言われた。
私の二年間よりもっと長い年月が経っている。
連絡のつかない研究生もいるそうなのでそんな連絡が来ていなければ連絡してみて下さい。
何か私はもっと冷静に考えたい気分である。
色んな人の話が聞きたい気もする。還暦のお祝いもそんな感じだったのでそれでいいのかもしれない。
節目節目で気持ちの整理も必要な気もする。
しばらくゆっくり考えたい。
それでも前向きに行くべきかなと思っている段階である。
----------------------------------------------------------------------------
それでも年末向けて色々物事は進んでいる。
明日も予定がある。パソコンの周りの片付けと庭の雑草を抜きたい。
今夜も録画を消化して明日の晩も消化したい。
最近は小説だけ読んでいる。
何か時間だけやたらむやみに過ぎている気はする。
それが何か書き込みしてしまう原因のようにも思う。
それでも家の中の整理ぐらいせなああかん。明日は三島の市長選挙もある。
私としては何か短日で明るいうちに用を済ませたい気がする。
それがついつい長引いてしまう。それが何となく明日の悩みである。
今年も色々進展したように思う。
来年はどんな年になるのかあんまり予測がつかない。
待っているのも気が遠くなる。私に時代が追いつくまでこんな状態なのだろうかと思う。
それでも来年もやる事がある。それでも新年は気楽に行きたい。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181215end
2018年12月14日金曜日
短歌と俳句
---> めぐり合い重なり合って人となす問題ばかりくり返しても 行雨
---> 引き連れた思いを胸にしのぶなりはかりしれない人生かしら 行雨
---> いつまでも話にならぬ話よりバカはバカだでさようならなり 行雨
---> いつまでも常識の無い話よりバカはバカだでさようならなり 行雨
---> 休みこそ一眼レフの機会あり期待を胸にあしたを思う 行雨
---> あたたかい心を胸に希望する勇気が宿り燃え上がるかな 行雨
---> うれしさも置いてけぼりで悲しさもいつまで続く他人の話 行雨
---> やり尽くす時代に向けてまだまだの道のり長くドラマあるかな 行雨
---> ゆっくりと心を休め旅に出る今年一年疲れをいやす 行雨
---> 師走から雑務こなして一歩ありあらたまるもの色々かしら 行雨
/*観念し*/
/*かたづけ始め*/
/*師走なり*/
/*思い思いの*/
/*年越かしら*/
/*頭には*/
/*雑務を残す*/
/*師走なり*/
/*一歩一歩の*/
/*思いを胸に*/
2018年12月13日木曜日
雑記
今日も細々と片付けした。
あんまり言いたい事もない。
幻聴だけがたまらんのと他人の無理解がたまらん。
可能性に乏しいのが私にとってたまらん。
限りなく可能性に挑戦したい。
それが普通の人である。
上も下も関係ございません。
なのにもめる原因がわからない。
それが率直な気持ちである。
ひたすら可能性にかけて工夫するだけである。
それをやめたら民主主義の崩壊である。
それなのに利害関係で対立するのは
可能性に程遠いからであって私の力ではどうしようもない。
私が愉快なのはふざけてるからじゃあなくて楽しんでいるからである。
その無理解はバカとしかまたはアホとしか思えない。
私に今さらどうしろというのかわからない。
無責任としか思えない。
子供にもわかるのに大人にわからない。
つまらない大人が私に何の関係があるのかわからない。
子供の方が楽しさを理解している。
こんなに面白い世界があるのにつまらない能書き多すぎる。
それは他人の可能性に問題多すぎる。
それを私には無抵抗である。
そんな利害関係犯罪である。
あり得ない問題にしか感じない。
考えない方がマシである。
それなのに私に何を考えろと言っているのかチンプンカンプンである。
ほとんど他人の問題である。
私を許せない理由がわからない。
ありえないことをありえないように言ってるだけである。
私としては可能性のあることしか考えない。
それは世の中として普通である。
そうやって私は私で用心しながら生きている。
それを理解しがたいのは人間として最悪である。
私としてはそんなのに関わりたくない。
それがわからない以上
いつまでたっても平行線である。
異次元空間の人である。
民主主義の崩壊である。
可能性とは何か全然無知である。
そんなのより面白く生きたい。
それがわからないから私は誤解されている気がする。
可能性が先か面白いが先か私にはわからない。
多分両方のような気がする。
それが子供にわかって大人にわからない。
世の中には不安なことが蔓延している。
私の家庭には安心があった。
外には不安ばかりだったけどそれに守られていた。
そこに勇気が与えられた。
そして愉快だった。そうしたことが学生時代から差がついてたのかもしれない。
エリートもそうしたことを良く考えて世の中を良くしなああかん。
高校時代から不安にさいなまれるなんて犯罪である。
学生時代ぐらいは夢のある人でいて欲しい。
それが愉快な仲間の一員のように思う。
それが利害関係の人間関係なんてナンセンスである。
夢が足らない。そんな可能性を感じる。
不安でしかない世の中に負けている。
それは私の責任ではない。
世の中の責任である。その不安を払拭するのも愉快な気持ちなのである。
いつまでたっても不安にさいなまれる原因でエラクなろうとする原因である。
そんな事しなくても生きていけるのがわからないのである。
わからない以上平行線である。
ボチボチやりたい。
2018年12月12日水曜日
雑記
今日も仕事した。帰宅後またシュレッダーにかけた。
今夜も色々片付けしたい。
何か兄弟とか姉妹とかの話になって双方に愛情は持てるかみたいな話を聞いた。
その話に何が疑問なのか私にはわからなかったけど
私としては愉快な仲間たちにプラス愛があればいい気がする。
そんな愉快な兄弟とか姉妹なら愛は存在する気はする。
高校時代「創竜伝」という本を読んでて四人兄弟が龍神という話なんだけど
すごく個性のある四人兄弟で愉快な兄弟な話なのである。
大学に続編読んでそれ以来読んでいない。
そんな愉快な仲間たちに愛があれば何の問題も無い。
面白くもない仲間に愛があっても全然面白くない。
何か面白い事が起こりそうな仲間ってあるよなあと思う。
そんな可能性を感じる愉快さが愛の秘訣のように思う。
あとは子供には安心感と規則正しい生活と読書ぐらいである。
そんな事言わなくてもあとは野となり山となりである。
楽しい事をいっぱい知るって大事である。
それが愉快な仲間たちの条件のように思う。
幸い私は色々経験している。あんまりエリートも知らない事を知っていると思っている。
ここまで来て何が基礎学力なのか私にはチンプンカンプンである。
エリートの知らない基礎学力なんて山のようにある。
結局学歴職歴なんて詐欺である。私が出来る事は楽しい話をするぐらいである。
それが愉快な仲間たちの登竜門のように思う。
何か私的に「逆襲の私」になっているけどそれぐらい世の中はあてにならない。
よっぽど私の方があてになる。それが私の本音である。
それぐらい色々私は積み重ねてきた。それが表面化しているだけである。
それと買い物ぐらい今はインターネットでいくらでも出来る。
必要なのは時間だけである。どれだけ時間が必要なのかぐらいしかない。
私にはあんまり時間が無い。多くてもあと三十年ぐらいしかない。
三十年で私は七十四歳になる。残された時間をどうやって使うか考えどころである。
まあ何か今日も書き込みしてしまった。
あんまり私の言う事なんて聞いてないから書き込みしてる気はする。
女なんてそんなもので自分の言いたい放題言って押しつけるのが山である。
なのでほとんど女不要論で良いと思う。
必要なのは時間だけである。それだけのために不要な時間を使っている。
こんな犯罪な話はない。女のやりたい放題やっている。
生活するのにも時間がいる。問題はただそれだけである。
女だからとか男だからとか関係が無い。
それが女の言い分なんてくだらない原因である。
だから私の言う事なんて聞く気ない。それが如実にあらわれている。
それが女のくだらなさである。男だって時間があれば対応する。それが現実である。
だけど男にはそんな権力が無い。それが世の中の実態である。
女にも男にも時間がいるのである。それだけのために問題が起きているだけである。
どうやって時間配分すべきかもっと真剣に考えた方が良い。
それが女だからとか男だからとかで左右している社会と
実際に使っている時間が詐欺である。もっと公平に時間を考えたら男も女も無くなる。
それが嫌な男と女しか厄介なものはない。それが私のストレスになっている。
そんな今日も過ごして書き込んでしまった。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181212end
2018年12月11日火曜日
近況
今日も仕事した。帰宅後いらないものを少しシュレッダーにかけた。
そのために昨晩少し片付けた。
今夜は今年の分のいらないカレンダーを捨てるつもりである。
何事も年末に向けて少しずつ前進するつもりでいる。
厳しい目があらゆるところに向くのは世の中が厳しいからだろうと思う。
何か楽しいとは無縁に思える。生きてて楽しいようにせなああかん。
そんな生き方をみんな模索しているのだろうと思う。
そのためにはもっと自由に向かっていかなければいけない。
それぐらい世の中は束縛と権力に押しつぶされている。
そんな手前
私は私でやる事があるようにしか思えない。
私をやっつけるよりもっと可能性を私を含めて他の多くの人たちにも求めるべきである。
それが私を含めないのはどうも民主主義じゃあない。
そんな大きな視点が欠けている。それが私の敵らしい。
本当に参るよなあと思う。可能性が半減するのを平気でしようとする。
そんなんで可能性は広がらない気がする。
なので万民にチャンスはあるだろうと思う。それが普通の視点だと思う。
なのに敵味方にわかれるのは今風じゃあ無い気がする。
それが私にどうせいというのかわからない。
私にはひたすらに無抵抗である。
何かここまで来ると可能性の無い人が問題を起こしている気がする。
それが私が敵になる理由にしか思えない。
そんなんいくらなんでもひどすぎる。
私は私で私なりに貢献しているだけであって私は責任無い。
私に他人が可能性が無い場合はどうするのか聞かれても困る。
ひたすら私は自分の可能性を求めるだけだからである。
そして他人に対しても同じである。万民にチャンスがある。
それが可能じゃあ無いのは神様に聞いてくれぐらいしかない。
そんな困ったちゃんにすがられても私にはそんな力は存在しない。
それが私なりの生き方であり私は私で工夫するだけである。
それだけのために私は生きているだけである。
それが普通の人だろうと思う。私は私で人柱になっている。
それを敵にするのはほとんど利害関係しかない。そんなんで世の中は成立しない。
それが私の本音であり。小中学校の再現である。
あきれ果ててたまらん大阪時代である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181211end
2018年12月10日月曜日
近況
金土日と京都に行ってきた。
二泊三日で大阪と京都を歩き回った。
京都は八坂神社と下鴨神社と島津記念館と二条城
大阪は大山崎と島本と高槻と梅田のあたり行ってきた。
残ってるところと変わってるところがあった。
こうやって変化していくんだと思った。
あんまり昔にこだわっても仕方ない気がした。
前を向いて前進するしかない。
それが私の実感だった。
許せない他人も昔にこだわり過ぎである。
それより先の方が大事である。
それが変化するということのように思う。
それと貴族がすたれて武士道が出てきたように
なんかそういう気高い精神が大事な世の中のように思う。
その精神は何なのか形作る必要がある気がする。
それがやったらめったらにならぬ王道こそが健康のような気がする。
それが他人の成功が許せないなんて不健康そのものである。
私にはそんな話聞きたくない。
それなのに他人の迷惑が当たり前なんて世の中間違っている。
ひたすらに無関係でいたい。
付き合っている暇なんてない。
それより気高い精神とは何なのか考えた方がいい。
それが昔と何がつながるのか私にはさっぱりである。
もう昔は昔でいい。
みんな同じにはならない。
ひたすらに気高くあるべきである。
それで私の問題にして何が解決するのか私にはわからない。
ボチボチやりたい。
2018年12月7日金曜日
短歌と俳句
短歌十首更新 ---> http://wakkii.umu.cc/poem_road/2018_12.html
---> やる気なく横たわるもの仕事あり気合を入れてのぞむものかな 行雨
---> 冬の夜深まるほどにやる事は山のようなり作戦会議 行雨
---> 祭りにも色んな世界垣間見る意味するものは不思議な感じ 行雨
---> 日に当たり小春日和のいい天気力のこもる道中かしら 行雨
---> いつまでも冬眠したく横になり人生どこか夢物語 行雨
---> 青天の天気はどこか空の中かけめぐるうち何かが浮かぶ 行雨
---> 話して思うところに行列に思い思いの祭りあるかな 行雨
---> 小春にも景色めぐまれ歩くうちあしたに進む気合を込める 行雨
---> やる事も山のようなりじっとして進むものなら風情あるかな 行雨
---> あらためて祈り込めつつ冬の夜あしたにつなぐ気合を込めて 行雨
/*タコばかり*/
/*よってたかって*/
/*寄せ集め*/
/*叫んだところ*/
/*意味不明なり*/
/*タコばかり*/
/*よってたかって*/
/*寄せ集め*/
/*話にならぬ*/
/*コンテンツなり*/
2018年12月6日木曜日
近況
昨日は少し大掃除というより後片付けした。
今日は帰宅後も色々いらないものを捨てた。
今夜もチョコチョコやろうと思っている。
何かもう年末モードである。
何か店じまいみたいな気分である。
煩悩を捨て去って正月が迎えられるのか何となくおごそかな気分である。
今年一年も何か二年たったような気でいる。
それぐらい私としては生き急いでいる気はする。
年老いているというべきかもしれない。
それぐらい中身の濃い一年だった気がする。
色々夢に向かって進んでいる気はする。
ここまで私の自己努力である。仕事にあきれ果ててるけどあきらめている。
来年はイノシシなのでひたすら猪突猛進かなあと思う。
なんかそれを地で行く年になりそうである。
それも色んなキッカケがあった気がする。あきれている仕事も影響している。
あきれてもそれなりに意味があった気はする。
あんまり仕事は適当でいい気もする。真面目にやるだけバカみたいである。
それより自分が目的を果たす方が意味がある。
ひたすらに神様に感謝しかない。世の中神様の言うとおりである。
それを自然法則のためだと思っているのは不幸の始まりである。
そういう人生を私は歩んでいる気がする。
日本人はもっと神様によりそって生きた方が良い。
それが幸せのもとである。それぐらいが他人を許せる範囲である。
何もかも自分がやる気でいると他人が許せなくなっていく。
そうじゃあない。神に選ばれる事で他人を許せるようになる。
それが人間の生き方のように思う。こんなに他人を許せなくなっても
私が許せるのはやっぱり神様のおかげである。
もっと日本人の心を取り戻すべきである。自然崇拝の日本人に戻るべきである。
色んなところに神がいる。
それらの神に感謝をして他人を許せる日本人になるべきである。
日本人の脈々たる心とは何だったのかそれが日本人の歴史である。
歴史にのまれるどころか受け継いでいく継承者になるべきである。
それが私を仕事から遠ざける原因になっている気もする。
何を持って仕事するのか悩ましい問題である。
ともかく明日もやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181206end
2018年12月5日水曜日
雑記
元徴用工の賠償は韓国政府が払えば良いんじゃあないのかと思う。
それがそうならないのは他の意図があるようにしか思えない。
日本に対するアクションでしかない。
結局仕事に徹するしかない。もっと考えることあるのに考えていない。
それが仕事にもあらわれている。そんな仕事でいいのか問われている。
考えること満載なのに考える余裕も無い。それがこの日本の実態のように思う。
それが元徴用工の賠償の対応にもあらわれている。
色んな意味でお金にするのは難しいなあというのが実感である。
どういうのが仕事するということなのか考えた方が良い。
労働すれば賃金が発生するのは労働者の立場である。
けれどそんなに簡単な話じゃあ無い気がする。
どうしたらそんな簡単な話になるのかもっと真剣に考えた方がいい。
仕事だから成立するのであって仕事じゃあ無ければ成立しない。
それが仕事というものである。
今日は大掃除やる気があんまりない。
やる気出るまでゆっくりしたい。
今日は私の読書の話と競争の話をした。
高校時代に司馬遼太郎とか父親の本を読んでたことと
活人剣とかセクシャルな小説とかも読んだ。
競争は簡単なことより難易度の高いことで競争した方が良いと言った。
難易度が高いことでメリットは当然あるはずであるみたいなこと言った。
三島図書館の方が小説が多くて沼津図書館は専門書が多いみたいなことも言った。
私的には本を読めば肥やしになる気はする。
今思うに地学が結構面白いかもしれない。
私は文系の多い高校だったので知らなかったけど結構地学もありだなと今は思う。
化学と物理を専攻したけど地学と物理でも良かった気はする。
生物は暗記が多くて私には荷が重い気がした。地学もそれなりに暗記がいるけど
結構面白いし人気もあるように思った。
私的には理系として地学と物理が推薦科目である。
生物もそれなりに人気のある分野になってきている気はする。
今世紀は生物も面白いかもしれないが大学の感じからすると私には苦手だった。
今日も書き込んでしまった。
色々考えがめぐる師走だからか当分ゆっくりしたい。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181205end
2018年12月4日火曜日
雑記
リビングにあったiMacを我が部屋に持ってきて
テレビにつなげてiMacを使っている。
そのために家にいればパソコン使うことが多くなっている。
今日は音楽CDを録音した。
本当は書き込みをする気は無かったけど
かわいいについて書き込もうかなと思った。
二十歳こえて私自身かわいいで済まない。
かわいいで済むのはティーンネイジャーじゃあないかと思う。
それでかわいいがキモイに感じる事もある。
ゴマカシになったりすることもある。不健康に感じることもある。
何をもってかわいいのか私には子供や少女や少年や青年ぐらいしか思いつかない。
いつまでかわいいで済むのか私には無責任でしか感じられない。
私自身かわいいと言われることあってもそんなことで勝負しない。
それが私のかわいいに対するささやかな愛である。
歳を重ねてかわいいで済まない歳である。
そんなことより楽しく生きたい。それが歳を重ねるということのように思う。
色んな可能性を感じて模索したい。それが私の四十代である。
可能性の無いかわいいなんて論外である。それが私の本音である。
何かが生まれそうな人間関係でいたい。惰性で生きたくない。
それで人間は死ぬまでかわいく生きれるものだろうか?
私にはかわいいは副産物でしかない。もっと他のものを求めて生きている。
かわいいより可能性である。そのために努力している。
極端につまらなくなるのを恐れている。それが私の可能性である。
かわいいよりコンテンツである。それが私の創造源である。
何か新しい発想を求めている。
なのでかわいいより他にやることはたくさんあるようにしか思えない。
今日は年賀状のイラストを作った。昨晩紙に書いて
今日の帰宅後、複合機で取り込んで色を付けた。
残すは文章だけになった。また後日頭冷やして考えたい。
明日から少しずつ大掃除したい。
気持ちのいい正月になるように努力したい。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181204end
2018年12月3日月曜日
近況
土日は一応日課を済ませた。
その間音楽アプリと画像アプリと動画アプリをインストールした。
何か期待感は大ありである。
今週一週間は日課を止めて大掃除と年賀状でもやろうかと思っている。
何となく気持ちのゆとりも大事だよなあと思う。
ここんところ時間に追われてそろそろリフレッシュも大事な気がしていた。
正直女もよくわからんけど
男もよくわからん。
何が男で女なのかチンプンカンプンである。
問題を起こすのが男なのか問題を押しつけるのが女なのか
ただあるのは問題だらけである。
もっと腰を据えて防波堤になる奴がいない。
それを男というのか女というのか無責任地帯である。
そんな根性がまるで存在しない。
そらあ私の努力の方がマシである。
それで男とか女とか言っているのは男でもないし女でもない。
全然かっこよくないし美しくない。
なんでそれが男なのか女なのか私には理解不能である。
そうやって逃げてばかりいるから男にもなれないし女にもなれない。
もっと防波堤になるような根性無くて努力とは言わない。
それが私の努力である。
色々無責任過ぎる。それが男にもならないし女にもならない原因である。
努力さえなんとか成立したら男でも女でも成立する。
それが成立しないのに男とか女とかの発言なんてナンセンスである。
そんな発言自体見苦しいしかない。
全然かっこよくないし美しくない。
それが私に何の関係があるのかわからない。
それでも私の仕事を否定して私の仕事が成立して他人の仕事が否定されている。
それがなんか問題があるように思えない。
ほとんど他人の問題であって私の問題ではない。
今週はゆっくりしてちょっと気持ちを持ち直したい。
私は私でよくやっている。私自身ほめてやりたい。
そんな事を忘れて時が過ぎている。それも私の役目かなと思う。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181203end
2018年12月2日日曜日
修善寺駅からJRさわやかウォーキング
今日は修善寺から紅葉狩りだった。
途中自然公園で鹿肉の味噌汁をもらった。
帰り韮山劇場に行ったがあんまり人がいなかった。
とりあえず今日も歩いて元気かなという感じでいる。
今日の予定は読書と録画の消化と短歌と俳句ぐらいである。
懸案は一眼レフと作曲である。
それがなんとなくここんとこのパソコンと一眼レフの影響で
私にも試せる機会がおとずれている。
三島に来て十五年長かったけどそれなりに成長している。
年老いているの間違いかもしれない。
それなりに我慢もあって苦労もあって努力もあった気もする。
それが今に結実している。
それでもやる事多く簡単に終わらない。それが仕事に走らない原因である。
そんな仕事でいいのか私にはわからない。
それでも色んなチャンスを感じるのは仕事が仕事になっていない気がする。
そこら辺が私が理論家でいる原因かもしれない。
ともかく世の中に訴える形で発信したいと思っている。
そのための創作にしたい。そのためには色々やってみないとどうなるかわからない。
そのためにパソコンや端末があると思っている。
そんなに色んな事が出来るのは時代のおかげだろうと思う。
それぐらい年々チャンスは転がっている気はする。
それをつかまえて世界に訴えたい。それが私の未来像である。
なので今まで失敗してもチャンスはある気はする。
私は私で今までの延長しかない。これ以上成功しても仕方ない気もするけど
それぐらいしか私が時間を使う理由がない。
私自身そういう状況にいるという事だろうと思う。
それはそれで犯罪に近いと思うけどしょうがないそういう運命にいると思っている。
それが私が仕事をするという事にもつながっている。
ただあるのは世界は無責任地帯という事だろうと思う。
それでも私は世界に訴えたい。それが私の心である。
そんなこんなで短歌と俳句は終えた。
残すは読書と録画の消化である。
今週も出来るだけ書き込みを減らしたい。
それが私の負担を減らす。新たな発想よりも大事な気がする。
総じてやり過ぎである。出来るだけ収束を試みたい。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181202end
2018年12月1日土曜日
近況
今日は散髪と買い物と鳥の写真をとった。
途中五味八珍でラーメンと餃子を食べた。
それでもインターネットでDAWアプリをインストールしたり
御殿場の時之栖のイルミネーション調べたりした。
帰宅後パソコンに写真を取り込んだ。
何となく頭には年賀状も冬の大掃除もある。
簡単に済ませば済むけど
何か本格的にやった方がいい気がしたりする。
それでも計画としては十二月の中旬にずれ込みそうである。
日課をやっている場合でもない気もする。
十二月の二、三週間は少しいつもと違うパターンで過ごした方がいいかもしれない。
今夜もそれはそれでやる事がある。
年末年始はそんなものかもしれない。
なかなかラクにならない。今年の正月は寝正月かなあと思ったりする。
それでも何かやっている気はする。それでも楽しいかが基準な気はする。
楽しんでいるうちに解決するのが一番の近道である。
それを悪だと言われれば全員悪である。
そんなんで正義なんて存在するのか私には理解しがたい。
どうしてそれがわかってくれないのか私には不可抗力である。
結局賢いって何なのかわからないだけだろうと思う。
それを何で私が教えなければいけないのか文句タラタラである。
結局防波堤になる奴がいない。それがこの世の実態だろうと思う。
それが私の地上の星の役目なんかわからんが私は私でやられっぱなしである。
正当防衛が成立しない。そんな正義はどこにも成立しない。
それがわかってもらえないからひたすら努力するだけである。
それで努力が成立している。神様に文句言ってくれという気分である。
何か本当に神様はいるんじゃあないのかと思ったりする。
それが私の奇跡である。あんまり神様を怒らせない方が良い。
それが私なりの神様の誓いである。
今日も色々楽しかった。
明日も修善寺に行くつもりでいる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181201end
2018年11月30日金曜日
短歌と俳句と雑記
他人が私を完全否定して誰かが私を持ち上げたら
他人が逆に完全否定されている。
それが私に何の関係があるのかわからない。
ほとんど他人の責任である。
そんな事まで私には不可抗力である。
他人が勉強するでもなくエラクなろうとするから間違っている。
もっと勉強すべきである。そんな努力が無いから賢くなれないのである。
そんな手前私は私で努力してきたぐらいしかない。
それが私に何の責任があるのかわからない。
ほとんど他人の問題であって私の問題じゃあない。
この問題は努力も無くエラクなろうとするから間違っている。
私は今まで粛々と努力してきたぐらいしかない。
男も女も努力が足らない。それが私に何の問題があるのかわからない。
つまりエラくなる人を間違って教育してきた事実しか無い。
私はひたすら障害者として努力してきた。
それが私をここまでやってきたのは何らかのチャンスを期待したからである。
つまり民主主義じゃあなかったらここまで来なかった。
そんな努力も無く何で逆に他人が完全否定されるのかもっと反省した方がいい。
私にはそんな問題は不可抗力である。
男も女も最低である。ただひたすら努力してきたぐらいしかない。
もうちょっとまともな国語で表現した方が良い。
無駄に無駄である。そんな事まで私には全く無関係である。
もっと愛に生まれてあったかくなるような勇気を持ちたい。
そんなところに愛が育つ。そして努力が始まる。
なんで上からとか下からとか見なければいけないのかわからない。
努力とはそういう愛の元に生まれる。
つまり問題の核心は愛が欠如している。
私には不可抗力で無抵抗で責任は他人にある。そうやって私は努力してきた。
不安からと言うよりは勇気からであり何で勇気かと言えば愛があるからである。
それを私もろとも完全否定して逆に完全否定されている。
それが私に何の関係も無い。それが私の実感である。
一体いつまでこんな不毛な国語力で理解しろというのか私には信じられない。
それが私の本音でありもっと他のところに愛があるようにしか思えない。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181130end
短歌十首更新 ---> http://wakkii.umu.cc/poem_road/2018_11.html
---> なるようになればいいかな何事も一日一歩言い聞かせてる 行雨
---> わからなくいつまで続く道中に展開読めぬ我が心あり 行雨
---> 落ち着きを取り戻すなり引き続き仕事をひかえ気合あるのみ 行雨
---> なるようになればいいかな人生は不思議が続く毎日かしら 行雨
---> 日を浴びて歩き続けて三島ありやれるだけやる思いを胸に 行雨
---> 引き続きやりたい事も夢のよう確かめてなおなるようになる 行雨
---> 蒲原で歩き疲れて帰宅する日曜こそは日課をこなす 行雨
---> めでたくも小春日和の散歩ありじっとこらえてまたあしたかな 行雨
---> なるようになるまでどこか一歩ありくり返してく毎日かしら 行雨
---> 月曜日仕事あるならもう一歩気合を入れて続くものなり 行雨
/*冬の朝*/
/*勇気を出して*/
/*布団から*/
/*はい上がるまで*/
/*新たな世界*/
/*出勤の*/
/*電車の中で*/
/*本を読み*/
/*文章書いて*/
/*もう一歩かな*/
俳句九句更新 ---> http://wakkii.umu.cc/poem_road/2018_11.html
---> 蒲原でみかんもらって笑顔あり 行雨
---> にぎやかな蒲原の町秋祭 行雨
---> 沼津にも行列出来て小春かな 行雨
---> 菊のある楽寿園にもめぐまれる 行雨
---> もみじにも子供心に持ち帰る 行雨
---> 子供にも思い思いの祭りあり 行雨
---> 歩くなり長泉にも柿紅葉 行雨
---> 小春にも元気を出して一歩あり 行雨
---> 門池の落葉ふみつけ歩くかな 行雨
/*落葉にも*/
/*覚悟を決めて*/
/*ふみしめる*/
/*短日の*/
/*祈りを込めて*/
/*帰宅する*/
2018年11月29日木曜日
近況
最近は古語とか英単語とかやってて
活用形も少し見直してちょっとだけ短歌に応用している。
その影響が俳句にもあるかもしれない。
過去は連体形とか結構使ってたけど
最近は連用形も使い始めた。
助動詞を使えばもっと幅が出るだろうけど今のところは保留している。
色々使ってみようと思えるのが短歌と俳句の魅力かなと思う。
形容詞もあんまり使っていない気はする。
色々チェックだけはしている。一応文語に対応したいのが私の動機である。
小説もようやく百ページを過ぎた。
まだ一巻目である。計四巻ある。三島由紀夫の絶筆を読んでいる。
どうやら四十五歳で亡くなったらしい。来年は私もそんな歳になる。
なまぬるい平和でお金だけが取り柄の生活とは私自身は無縁であるが
三島由紀夫が科学者だったらどうしただろうかと想像してしまう。
もっと大きな世界としての自然を感じたような気もする。
そういう意味でもっとたくさんの美しさがこの世界には存在する。
なので書くことは山のようにあったはずである。
なのに四十五歳で悟りを開いてしまった。いつの世も賢い生活とは何かというのが
夏目漱石にしろ古典文学にしろ今も例外じゃあないだろうと思う。
それが三島由紀夫の絶筆にもあるのかわからんけど
当分三島由紀夫に付き合うつもりでいる。
私は私で色々書いてきた。今の世でまともに生きている方だと思う。
そういう意味で私は私なりに価値はあったんじゃあないかと思う。
そういうインテリ思考はテレビには全く感じられない。
それがトランプ現象のように思う。
なので中身のある生活をすることが人間の使命のように思う。
それが日本文学にもあらわれている。
昔からそういう日本だったのにそういう日本が失われている。
そういう日本全体の歴史や現状を考える奴がいない。
まあとりあえず古典に学ぶ視点で
三島由紀夫を考えられるのか興味本位で読むつもりである。
それぐらいがここ最近の変化である。
今日も書き込みをしてしまった。
一歩一歩前進したい。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181129end
2018年11月28日水曜日
雑記
私自身もう他人を説得する気が無い。
賢い側の話というより馬鹿側の賢い論である。
そんなの永遠に話が合わない。
だってどうやったら賢くなるのかというより
馬鹿が生きていけるかという話だからである。
そして本人は馬鹿じゃあ無いと言っている。ただ言っているだけであって馬鹿である。
どうしてそんな現実逃避をしようとしているとしか思えない。
それに付き合う私は馬鹿馬鹿しいだけである。
馬鹿をアホにしても同じである。
都合の良いように考えたって現実逃避にしかならない。
そんなんよりどうやって賢くなるかの方が普通の人である。
つまり普通の人じゃあ無いつまり馬鹿とアホである。
そんな現実感覚で社会が通用したら税金の無駄である。
そんなこんなで平気で税金の無駄を続けるつもりなのか私には理解不能である。
とどのつまりつける薬がない。
どうしてそんな他人を説得せなああかんのか私は投了である。
もうここまでくると好きにして下さいぐらいしかない。
私も勝手にしますぐらいしかない。
それが私の中卒と高卒である。誰も見守られていない。そう地上の星である。
その間私に勉強方法を聞いた人はただ一人だった。
それも私には自信が無かったからこたえなかった。
長文から単語を覚える以外の英語の勉強方法だけが抜け落ちていた。
それが大学出てから十八年悩み続けた。
外国人の話しかけられたのもキッカケだった。
結局私にあるのは高校受験の英語の感覚だけだった。
それを大学受験にもだった。
そうやって当時の感覚をよみがえるにはどうしたらいいかを考え続けた。
そうやって今がある。今は他の外国語にも適用しようとしている。
そうやって賢くなろうせず都合の良い賢い論は無駄に無駄である。
そして賢い意見も聞きたくないなんて本当にご都合主義である。
そんなの普通の人じゃあない。単なる馬鹿とアホである。
それを私が説得する気になれない。
勝手にやってろこっちも勝手にしますぐらいしかない。
それが私の中卒高卒時代なのである。そして地上の星だった。
その再現はもうこりごりである。せめて大卒や修士修了にとどめたい。
無理解な話は中卒と高卒で終わりである。
専門性もあるけど普遍性の理解は大卒や修士修了である。
さらに気が進まないのはいつまで地上の星をする必要があるかである。
馬鹿とアホが地上の星をすればいいのだけどそんな気も無いはずである。
そんな気があったら普通の人になっている。
そんないい加減な状態をこの世は許している。
なので馬鹿とアホだけが無責任とは言い切れない。
それが問題の根本だろうと思う。
権力争いしか出来ない世の中が浮かび上がってくる。
それを馬鹿とアホにクローズアップしても仕方ない。
それが私の実感である。日本人全員が無責任なのである。
それを隠しても隠しきれないところが問題である。
それが私の本音である。
今日も書き込みをしてしまった。
一応これでもフェードアウトしたい。
なんかあんまり書くこと無く書いて文句ばかり出てくる状態である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181128end
2018年11月26日月曜日
雑記
昨日はギリギリ日課を終えた。
録画も消化した。何か中身の濃い三連休だった気はする。
今日も日課がある。なんだか段々時間に追われて何事も順番かなあという気はする。
それでもやりくりする余裕はまだある気はする。
本人はそれでも楽しんでやっているだけに人生そんなものかなとは思う。
自分自身はようくここまで来たなあと思う。
こんなに日課をこなす人生は想像していなかった。
それぐらい時間が必要だった。それぐらい私も工夫に工夫を重ねた。
未だにどんな展開が待っているかわからない。
ただひたすらに良くやっている気はする。そこには学校も会社も存在しない。
なので社会に還元する必要がある気はする。
なかなか大学の頃の説明だとアインシュタインのような天才にしか出来ない気はする。
それでも時代がそうさせている気はする。
それぐらい学問の中身が濃い気はする。
なかなか短時間でどうにかなる世の中じゃあない。
それが私が四十代にしてようやく実現した日課にあらわれている気がする。
それぐらいやることがたくさんある世の中のように思う。
なのであんまり十代でどうにかなる世の中じゃあないと思う。
それで基礎学力とは何なのか学校自体が変質していると思う。
大学出てもあんまりやること多くて消化不良が関の山である。
それでもここまで来たのは時代だろうなあと私は思っている。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181126end
2018年11月25日日曜日
下土狩駅からJRさわやかウォーキング
今日はスタートとゴールが下土狩駅だった。
昔の墓もあり柿紅葉も見て滝を見て池を見て最後は長泉の産業祭だった。
それなりに楽しんだかなあと思う。
その間に色々話をした。
その中に他人の話をしたら迷路になるような事言った。
基本的に自分のこと考えた方が良い。
自分のこともわからないことあるのにどうして他人の事を考えられるのかと思う。
他人の事は迷路に入る原因である。
自分中心に他人と接した方が良い。それがシンプルな方法である。
極めてわかりやすい関係である。
あんまりわからないことは聞くしかない。それが他人の世界である。
ひたすらに自分の世界のこと考えた方がいい。
それがわかりやすい人付き合いである。
今週も日課をこなせるのかちょっと心配している。
今日一日でやれるところまでやるつもりでいる。
結局今週の録画は消化出来なかった。
色々今週も変化があって対応しきれなかった。
なかなか安定するまで時間がかかりそうである。
色々忙しくてゆっくりしたかったのもあるかもしれない。
時間が結構あったにもかかわらずこんな展開になってしまった。
それだけ色々やったにはやったんだと思う。
安定するのも時間の問題だと思う。
出来るだけいつも通りにやれるようにやりたい。
それでも面白く時間を使っている気はする。
それぐらい毎日展開しているのだと思う。
なので当分この生活を続けたい気はする。気になるのは仕事ぐらいかなあと思う。
果たして私のやりたい仕事は存在するのかそれが私の関心である。
この生活をやめてまで仕事したいことって何なのか私もわかっていない。
多分パソコンの仕事じゃあ無い気はする。
それはそれで求人を見ながら考えている。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181125end
2018年11月24日土曜日
一眼レフ
今朝ちょっと一眼レフを使って初めて写真をとった。
プリンターで印刷してみたりした。
本当に良くとれている。時代は進んでいる。
そんな手前昔のこと考えるのもどうかと思う。
ひたすらに前進しかない。それが私の実感である。
未来に向かって何が出来るか考えた方が生産的である。
それを今日は強烈に感じた。
昔のこと考えたら文句タラタラである。誰も許せなくなる。
そんなんより未来志向の方が大切である。
着実に前進している。それが他人を許せる唯一の方法のように思う。
そんなこんなで今日も楽しかった。
庭の草抜きを少しした。色々店をまわった。
夏服をようやくしまった。
色々来月の準備も色々した。
まだまだやる雑務はありそうである。
ボチボチやりたい。
<<追記20181124end
2018年11月23日金曜日
大場と三島のお祭りに参加
今日は伊豆箱根のお祭りと三島のお祭りに参加した。
一応スタンプラリーでリストバンドを二つもらった。
楽寿園には菊が咲いていた。
車両に乗って電車を洗浄しているのを観察した。
鉄道模型も見た。何かiPadかなんかのダブレットで操作していた。
子供も多かった。ほとんど子供連れのように思った。
今日の午後はゆっくりしようと思ってたけど
パソコンのプログラムの変なエラーが起きて午後四時近くまで悪戦苦闘してた。
Macで動くからWinでも動くにならないから気持ちは悪かった。
なんとかこれからゆっくり出来そうである。
なんとなく何にもしないが仕事のように思う。
それぐらいなんか疲れた。
カゴメのポイントを応募した。
どうやら抽選のようである。
それでも他にも雑務がある。気長にやりたい。なかなか予定通りにいかない。
今日の夜は思う存分寝れそうである。
それでも何かやり過ぎ感は否めない。
なんか頭使っている気はする。
それが良いことなのか悪いことなのか私もわかっていない。
神の導きのまま生活は続いている。
私としてはなるようになるだろうぐらいしかない。
なのでなるようになるのが私の生きる意味のような気がする。
未来を期待して生活するぐらいが関の山である。
そうやって未消化の本も含めてそうやって進んでいる。
何か読めそうな本が出てくるのを期待して生活している。
そんな活動してたら何か良いことないかなあぐらいで生きている。
それなのに他人の生きる意味で私が迷惑を受ける権利は存在しない。
迷惑千万である。もっと環境の良い他人になって欲しいぐらいしかない。
なのであんまり他人の生きる意味が私にどうやって重要になるのか私は理解できない。
ほとんど私の問題じゃあない。他人の問題である。
私は私なりに工夫して乗り越えようとしている。
それもインターネットで発信している。
私がやることじゃあないのは自覚している。それなのに私しかいないのも自覚している。
それが学歴と職歴の崩壊につながっている。
私は高見の見物である。どのようにこの世は対応しようとするのか私は待っている。
待っている前にそれなりに雑務がある。
それに対応しつつ
ボチボチやりたい。
<<追記20181123end
2018年11月22日木曜日
雑記
昨日は人間の生きる意味考えて失敗して
書き込みをやめてしまった。
それぐらい社会は複雑である。
生きてて良かったと思えれば生きる意味でもあり。
それが仕事につながるかと言えば労働の価値を最大化しても
そんなにやりたい仕事かと言えばそうでもなかったり。
それなりの成果があっても人間が満足するかというと複雑な気分である。
何か私自身も仕事以外の方がやり甲斐がある。
健康と生活のために仕事しているようなものである。
そんなこんなで複雑な人間の生きる意味を考えて出口は人それぞれのように思う。
とりあえず三連休である。
気分はゆっくりしたい。パソコンライフも順調である。
一眼レフもそろそろ使ってみたい。
一応説明書を読んだ程度である。
大きなダンボールをどうしようか考えなああかん。
プリンターとパソコンのダンボールである。
それでもなんとなく長い時間を感じていたい。
それが私のゆっくりしたい理由のように思う。
あんまり急いでも良いことない。
何か平和がなによりのように思う。そんなに急ぐと戦争の原因のように思う。
そんなに効率を求めて何が幸せなのか私にはチンプンカンプンである。
余裕を求めてちょっと風流なのがちょうどいい。
それが仕事で台無しである。そんなにあくせくして何が幸せなのかわからない。
生きる意味とはもっと価値のある事のように思う。
そういう事を考えることを仕事は忘れている。
それが私の自己防衛である。キーワードは価値観と心である。
そんなにあくせく生きて生きる意味もないのは悲しい。
立ち止まって考えたい。それが私の実感である。
往々にして誰も考えていないというのがこの世の仕事のように思う。
なので学校や会社にも責任があると思う。
せめて考える余裕ぐらいは持つべきだと思う。
それが中年を過ぎて何にも考えてこないのは悲劇である。
それが私の実感であり社会の無責任である。
それで厄介なのは生きる意味は人それぞれということである。
なのでなおさら人それぞれ考える必要がある。
他人が考えて解決しない。なので他人に対して私には不可抗力である。
私は私でやるしかない。それが私に何の問題があるのか私にはわからない。
ただあるのは他人の問題だけである。私にはひたすらに不可抗力である。
私に出来るのはヒントぐらいしかない。それを構成するのは他人自身しかいない。
それで私に何の問題があるのかチンプンカンプンである。
それが私の実感である。
今日も書き込みをしてしまった。
少しずつ余裕も生まれていると思う。
あんまり書き込みたい事もない。
祈りのようにフェードアウトしたい。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181122end
2018年11月20日火曜日
雑記
段々書く事もない気がしている。
ようやく日課も安定軌道している。ここ数週間忙しかった。
今日ぐらいが落ち着きを取り戻している気はする。
読みたい本を三冊携帯して仕事している。
それはそれで成功している。
三冊のうち残り二冊は一日おきに交互に入れ替えしている。
計四冊消化している。
最後の一冊は小説である。
課題として気になるのは古語をどうやって暗記するかである。
短歌と俳句考えたら必要なのか不必要なのか私としては複雑な気分である。
古語を使って自分で文章を考えて暗記した方がいいかもしれない。
みんな誰かがやってくれると考えるのが甘いような気がする。
自分の文章なら暗記しやすいかもしれない。
ここにきて転換点のように思う。
自分の言葉で暗記する。それは英語にも言える気がする。
自分の英語の文章なら覚えられる。
みんな他人がやってくれるのを待つのは時代におくれる。
そんなこんなでパソコンライフも快適である。
今年は私としては人工知能元年だった。
資格も今年はとれなかったけど
それなりに進めている。ちょっと受験にお金がかかるのが気が重たい感じがある。
そのため今年は無理な気がしている。
まだまだ読むべき本がある。どれから受けるべきか迷っている。
お金の負担の少ないものから受けるべきかなと思ったりしている。
それでもまだまだやる事はたくさんあるのが現状である。
結局私は何をやりたいんだろうとも思う。
そう思って読書している。基礎学力って何だろうと思う。
基礎学力の知らない人が多すぎる。多分他力本願だからだと思う。
自分が開拓する基礎学力が足らないんだと思う。
それが私の基礎学力である。他人の言う基礎学力とは何なのか私にはピンとこない。
私にはテストが出来る事じゃあない気がする。
テストは手段であって目的じゃあない。
それでもあの手この手で乗り越えようとしている。それが基礎学力のように思う。
今日も書き込みをしてしまった。
それでもフェードアウトしたい。
段々あんまり書き込みたい事もない。それでも続くのは私にも不思議である。
神様にでも聞いてくれというのが本音である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181120end
2018年11月18日日曜日
由比駅からJRさわやかウォーキング
今日は由比駅から新蒲原駅までだった。
途中で産業フェアやってて行列が出来てた。
みかんも試食だけど食べた。桜エビ関係の菓子を買った。
お日さんが照ってて気持ちの良い日曜日だった。
なんとなく元気をもらった気がする。
私が政治に期待する事
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なんかこの日本はやるべき事はたくさんある気はする。
政治家がどうにか出来る範囲を超えてる気はする。
なのであんまり期待していない。
そんな暇があれば努力する方がマシである。
だけどもっと教育とか仕事とか考えた方がいい。
それが直接人口減少につながっている。
損得ばかり考えすぎである。
効率のいい社会になっていない。
本当に人材の墓場である。
もっと努力出来る世の中にすべきである。
なのに期待値ゼロそれが問題の核心である。
もっと希望の持てる世の中にすべき。
あんまり文句言うより
私に何が出来るかただそれだけが私に重くのしかかる。
それが私の現実で政治家のやる事はひとごとである。
私が思うにもっと直球勝負の若者が必要である。
そのための政治家が必要である。
もっと色んな事にチャレンジしてもらった方がいい。
それが私の期待感である。
そんな政治が私ののぞみである。
あんまりエリートや上の人は期待していない。
若者こそ期待の対象である。
必要なのは問題の構成力である。
どう構成したら問題が解決するかである。
その問題に気づかなければ構成出来ない。
気づいても構成しなければ解決しない。
そんな若者がこの日本に必要なんだと思う。
私としてはそういう政治をして欲しい。
ただそれだけが私の気になるところである。
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まあこんな事があっても明日は仕事である。
それでもメールと読書とUMLが残っている。
とりあえず最近は日課が一週間完成になっている。
これ以上書く事無いだろうと思ってまた一年過ぎようとしている。
それはそれで財産かなあと思っている。
書けば書くほど財産になる人生を歩んで欲しい。それが私の本心でもある。
いろんな足跡を残して書いて書きまくっている。
それは短歌や俳句も同じである。話のネタは尽きなくなっているような気もする。
そうした書き物としての財産が作れる人が人生の近道だろうと思う。
それが私の最初からのこのホームページの思いが続いている。
要するに読みたいものを書いたら書くほどチャンスは生まれやすいそう思う。
何かここまで来ると文化だなあと思う。
そういうチャンスも若者には必要である。それを与えるのが政治家だと思う。
それでも一応フェードアウトをしたい。
出来るだけ冷静にいたいというのが私の気分である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181118end
2018年11月17日土曜日
三島駅からJRさわやかウォーキング
2018年11月16日金曜日
短歌と俳句
短歌十首更新 ---> http://wakkii.umu.cc/poem_road/2018_11.html
---> やり過ぎて続くものならあきれ果て置いてけぼりの無責任かな 行雨
---> 元気出しくり返してく毎日はゾンビのようにまたあしたかな 行雨
---> 寒くても家にいるならあたたまり思いはめぐる天国かしら 行雨
---> 家の中作戦練って日課あり一日一歩進むものかな 行雨
---> つまらなく時間ばかりがダラダラと面倒ばかり先に立つなり 行雨
---> 私には問題無くてむなしくてつまらないほど時間が過ぎる 行雨
---> 富士にあるくもり富士山なんのその一心不乱歩き出すかな 行雨
---> 落ち着いて日曜の夜むかえても先行き見えぬ努力あるかな 行雨
---> あしたこそ雑務こなして夜があり面倒だけど一歩一歩ね 行雨
---> つまらない競争ばかりむなしくて結果が大事見失うなり 行雨
/*最近は*/
/*やる事多く*/
/*雑務あり*/
/*落ち着くまでは*/
/*ひた走るかな*/
/*ひたすらに*/
/*やるだけやって*/
/*またあした*/
/*どうなる事か*/
/*言い聞かせても*/
俳句九句更新 ---> http://wakkii.umu.cc/poem_road/2018_11.html
---> 秋の蝶お前はどこに飛んでいく 行雨
---> 小春にはめでたさ募る旅の跡 行雨
---> 富士のある景色眺めて秋深し 行雨
---> もみじにも心を残す御殿場よ 行雨
---> 木の葉にも通り過ぎれば旅の跡 行雨
---> 立冬の課題多くて疲労感 行雨
---> 冬に入りやる事あれば憂い無し 行雨
---> 枯木からいつの間にやら過ぎてゆく 行雨
---> お鍋から元気をもらう家の中 行雨
/*冬来れば*/
/*休まるものは*/
/*家の中*/
/*冬立てば*/
/*もうしばらくの*/
/*一歩かな*/
2018年11月15日木曜日
雑記
あんまり思いつく題材もない。
最近考える題材を文章にしてみた。
なんかあんまり書くことないかなとは思っている。
なんとなくフェードアウト出来そうな気もしている。
なんかここんとこ負担が軽くなっているのもあるかもしれない。
元気と言えば元気である。
アインシュタインと私
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アインシュタインのように私はいかないけど
私のようにアインシュタインはいかない。
でもアインシュタインが生きてたら
私のように次元を思いついてた気がする。
それぐらい今まで天才は現れなかった気がする。
それで私は天才なのか私にはわからない。
ただ言えることはその他にも誰にも思いつかなかった事を思いついた。
それが私の哲学のように思う。
それぐらい悩んだとも言える。
それを乗り越えたのは不思議なくらいである。
なので私も良くやっている。
それでも天才はなかなか難しいなあと思う。
めったに出てくるもんじゃあなさそうである。
戦略としては自分がやれることをやるだけである。
それで他人と違ってくる。
私は私で別領域かなあと思う。
それが私とアインシュタインである。
それでも相対論の継承者の気持ちでいる。
過去から今と未来をつなげて欲しい。
私の旅は私からスタートした。
それはアインシュタインと一緒である。
それからの解決は
アインシュタインの方が早かった気はする。
それでも理論家の役目を果たした。
道のりは遠かったけど何事も一歩一歩だった。
それぐらい気の長い道のりだった。
大きな理論とはこんなもののように思う。
物理に関係の無い生活も必要だった。
消化不良の学問もあった。
外堀から埋めていく気分だった。
色んな事が交錯して今がある。
そういう意味で理論家だった。
そんな大量の学問が今ある。
それを消化するのは至難の技である。
そういう時代に今はいる。
あんまり一つの学問で解決しない気はする。
長い旅が必要である。
それが出来たのは理論家の役目だった気がする。
以上で私は私で良くやった。
ほめてやりたい気分である。
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今日も書き込みをしてしまった。
あんまりテストには神経質なので何か書き込みをしたかった。
無意味な競争は避けた方がいい。
外国語もそうである。ある程度の指針にはなるがあんまり期待しない方がいい。
テストが終わったらまた次ぎの事考えた方がいい。
何にも使えないのにテストばっかり出来てもしょうがない。
何か使えそうな気がするのが大事である。
そんなワクワク感もなくテストしてもしょうがない。
ワクワクゾクゾクそんな漫画のような夢が見られる科学ならきっと成功する。
それが私の正直な気持ちである。
実際私はそうだった。大学にいる時も出て行った時も夢のようだった。
なので基本的に仕事もそうあるべきだと思う。
上司がどうのこうのより上役がどうのこうのより本人の問題だろうと思う。
それが私の立場である。あとは連絡報告相談ぐらいしか上司と上役にはついてこない。
何にも特別な気持ちもない。いたって普通で仕事している。
あとは工夫次第である。それは自分の頭で考えている。
いたって善良な市民として仕事してる。それを否定したら善良な市民は成立しない。
そんな民主主義でいいのか私には理解不能である。
善良な市民が間違わず仕事して生活して正解である。
もうここまで来ると何が問題なのかチンプンカンプンである。
もっとよく考えるべきなのは他人である。私ではない。つまり私の問題でない。
何か自由になりたい。それが私の欲求である。自由は間違っていない。
それが私のアメリカに対する気持ちである。
ヒトラーは社会主義でトランプは共和主義である。
なんとなく考え方が違う気がする。考え方がそれたら共和主義じゃあなくなる。
ここんとこアメリカが分裂しているけど
中国に対する考え方は間違っていない気もする。
色々不安要素はあるけど期待もあるかなという微妙なところのように思う。
あとはトランプ次第のように思う。大統領って大変である。
私には出来ない。それが政治家らしいと言えばらしい気はする。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181115end
2018年11月13日火曜日
雑記
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世界につながるには
やっぱり外国語でしょう。
そういう世界があることを認識する。
そうやって日本につながる。
日本語も変化する。
それがグローバルスタンダードである。
世界と日本が連動する。
そういう認識が新しい考えを生み出す。
必要なのは世界に訴える心である。
それが外国語によってつながる。
まさに心が外国語なのである。
それが悲劇である。
それぐらいしか差がつかない。
そのための試験になっている。
我々は心を取り戻す必要がある。
多くの人があきらめる原因になっている。
あんまりいい傾向にない。
変な競争の道具になっている。
それがかえって世界を閉ざす原因である。
もっと明るい未来にすべきである。
それが競争によって台無しである。
学歴と職歴の崩壊である。
もっと基礎学力とはなんなのか見つめ直す必要がある。
それがすっぽり抜け落ちているから変な競争になっている。
まともな競争になっていない。
それが心からしてそうである。
それは外国語に限らない。
日本でなんて視野がせますぎる。
世界と日本が連動すべきである。
それが競争の道具に成り果て大事なものを失っている。
ただの権力争いである。
だいぶ軌道修正した方がいい。
ただあるのは外国語は心である。
魂の叫びに外国語を使うべきである。
なので日本語も世界に向かって作るべきである。
そのための思考のトレーニングが言語なんだろうと思う。
泳ぎきれそれが言語である。
それが私の実感である。
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2018年11月10日土曜日
御殿場駅からJRさわやかウォーキング
今日はスタートとゴールが御殿場駅だった。
目標はキリン御殿場蒸留所だった。
一応ビデオ見て見学してお土産もらって帰った。
途中紅葉もあって秋らしく坂道だったけど歩いた。
家に帰ってもやる事あって疲れた。
明日もやる事がある。明日の夜にそれを報告出来たらいいなあと思っている。
一応プリンターとデジカメとパソコンを買った。
古いパソコンは先週廃棄した。
プリンターは複合機を買わなかった。
そのためスキャナー代わりに古い複合機を使おうと思っている。
明日は家にいることが大部分なのでゆっくり出来ると思う。
とりあえず月曜から安定するように持っていきたい。
面白いのか大変なのかあんまりわからない。
それでも今日も一歩一歩である。
心配なのは日課がこなせるかというのが気になる。
それなりに新しい機械のため非常事態宣言なので仕方ない気もするけど
そんな時ぐらい欲張っても仕方ない気もする。
それでもなんか生活は便利になる気はする。
古い機械も良く耐え抜いてもらった。
かわいいと言えばかわいい気はする。
キモイのとは違う気がする。
それぐらい使った気はする。
もういくら異次元空間の人だって関わりたくない人だったら
色々文句も出てくる。そんなのに付き合うほど暇時じゃあない。
ここまで来ると疫病神だぐらいしかない。
なんでそんなのに私が関係あるのかわからない。
つまらないくだらないどうでもいい何でそんな奴が特別なのかわからない。
それをキモイというのであってかわいいじゃあない。
それが私に何の関係があるのかわからない。
使えない奴だぐらいしかない。いい加減もうラクにしてもらいたい。
それが正直な気持ちである。
60歳まであと16年あんまり時間が無いというのが正直な気持ちである。
子供も成人しないで還暦である。
子供に対して私も私で無責任な人生を送っている気もする。
これは私の力ではどうしようもない歳なんだろうと思う。
それが私の今の実感である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181110end
2018年11月8日木曜日
雑記
私には神経質ででっかいテーマだった。
テストには複雑な感情である。
もっと王道がある気がする。
他のことやってたらテストをパスしたぐらいで十分である。
それなのにテストに特化した人達がいる。
罪は無いけどテスト自体が無意味である。
もうここまでくると学歴職歴自体が罪悪である。
この日本のどこが明るいのか私には理解不能である。
もっとまともな活動とはなんなのか真剣に悩んだ方がいい。
誰も考えようとしない。
無駄な競争ばかりしている。
本末転倒である。
もっと王道とはなんなのか考えた方がいい。
それもなくテスト対策に特化している。
もっと気軽にテスト受けるべきである。
いつか合格するぐらいでいい。
なのにシャニムニ競争しようとする。
問題が大きくなるばかりである。
テストありきから離れるべきである。
もっと大事なことは他にたくさんある。
テストなんて二の次でいい。
それでようやく世の中が本筋になる。
テストにこだわるのもこだわらないのも問題である。
たかがテストされどテストである。
そんな浮いたテスト感が大事である。
それがなんか私の実感である。
あてになるようであてにならないテストのように思う。
ほとんど最終的に間接的にテスト出来ればいいと思う。
なのに最初からテストに走るのは問題あり過ぎである。
なので基礎学力はテスト受ける前にあるべきであってテストは過程にすぎない。
そんな軽さがテストには必用な気がする。
なのにテストに特化しようとする。
それがテストを変質させてる気がする。
だけどそんな軽さがないと
ものの本質にはいたらない気がする。
それが私の感じる自然である。
自由でいる可能性は軽いことでもある。
そこで本質にふれる気がする。
なのでテストにも軽くなるべきである。
それが私の感じるテスト感である。
2018年11月7日水曜日
雑記
昨日話しの途中でジョージ・ガモウの話になった。
一応ロシアからアメリカに帰化した人である。
私が大学院生の研究がこの人の縁である。
アメリカ人では研究がニッチであるとの評もあるらしい。
子供向けに小説を書いている。
物理と遺伝子とかの小説である。
遺族が最新の科学に改訂している。
ちょっと本としては高いけど沼津図書館には存在している。
物理ではビッグバン元素合成で宇宙の大部分を占める
元素の水素とヘリウムの存在率を証明してノーベル賞をとっている。
今の宇宙全体が三度Kであることを予言していた。
私が大学の頃は宇宙背景放射が話題で観測の人がノーベル賞も出ていた。
その後遺伝子の研究をしたようだが失敗したらしい。
昨日の話だとパスカルのパンセの話もした。
学校の無い時代で父親の教育で育てられた時代で
ノーベル賞も存在していなかった。
パスカルの死後遺族が書き残したものを集めて出版した。
クレオパトラの鼻が高かったらとか
人間は考えるアシであるとか名言が残ってる。
なんかデカルトは科学がシステマチックな世界論だったのに対して
ちょっとパンセは科学に冷静だったようで対極にあるらしい。
私がこんな事を書くのは
月曜日の影響があると思う。私の文章が他人に評価されていないと他人に言われた。
そうかもしれないけど私のために言っている気がしなかった。
ほとんど見えない他人に向かって言っている気がした。
私のことなんて眼中にないそう言っているように聞こえた。
そんな手前この人に何を言っても無駄だなと思った。
私は私で物理に対して成果をあげた気でいる。
ここまで書いてきたのもそれがあるからだと思っている。
私が書く意味がある。それだから書いているのである。
それがジョージ・ガモウとパスカルに私自身かぶっている気がして
今の科学としても十分成立している文章のように思うが
誰も考えないから私が考えるになっている。
それぐらい文章を書くというのはそれぐらいのバックボーンがあるからだと思う。
それを評価されていないとか評価するとか私には別次元である。
私には無関係な事言って私より他人に言っている気がした。
私にはもっと私のこと考えてくれる人が必要である。
他人の話なんてどうでもいい。
それが私の本音である。
それで三島市からお金をとっている。私のことについて無責任である。
それも無駄なお金だなあと思う。
もっと福祉とは何か哲学が欠けている。
それが私の前で起こっている。それが私の実感である。
今日も書いてしまった。
明日もなんかでっかいテーマがあるけど
気が重い。気分次第である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181107end
2018年11月4日日曜日
富士駅からJRさわやかウォーキング
今日はスタートとゴールは富士駅だった。
堤防目指して緑道を通って北上し川を少しのぼってくだった。
産業フェアやってて
シラスコロッケ買って食べた。
沼津駅で昼食して文房具を少し探して帰った。
富士山はくもってて見えなかった。
でも景色は良かった。気分良く歩けた気はする。
あんまり私も言いたいことはない。
ただ言えるのは私については私が知っているというだけである。
それなのに他人が他人の話するのは迷路である。
そんな話につきあうほど暇時じゃあない。
私は私のこと考えて色々やっているから私のことを私が知っているのである。
それ以外は私にはナンセンスである。
もっと他人が説明責任がある。日本語にならない話ししても解決しない。
なので今まで無駄だったぐらいしか思いつかない。
未来も永遠にそうだろうと思う。
それで私が説明できるのは私だけである。それ以外はチンプンカンプンである。
なので他人を救えるほど暇時じゃあない。
それなのに弱者にこびて生きるのはどうも静岡にはそんな人おらんらしい。
自立とはそういうものらしい。なので都会の異次元空間には参る。
もうちょっと個人が自立せなあこんな事にならない。
それでも昨日は少し工夫を考えて来週からどうなるかあと思っている。
それも私を知るキッカケでもある。
どうも生き残るのは私の中の私になりそうである。
それが私に何の問題もない。それなのに他人は問題をかかげてくる。
これが何の迷惑なのかチンプンカンプンである。
ここまでくると犯罪である。何様のつもりでそんなことするセンスなのか無神経である。
本当にデリカシーがない。まともな人間のすることかと思う。
なんでそれが私に関係あるのか全然ピントこない。
出来るだけ書き込みを減らしたい。
どうなるかわからないけど努力だけはしようと思っている。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181104end
2018年11月2日金曜日
近況
<<追記20181102
今のホームページがIPアドレスの変更で見れなくなっている。
いつになったら正常になるかわからないが
メールが来ててそういう案内だった。
とりあえずBloggerとFacebookと三島SNSが更新の材料になっている。
なんか良くない事する人もいるらしい。
私には全く関係がないぐらいしかない。
それが普通の一般庶民だろうと思う。
それでも正常にもっていくのが善良な市民のように思う。
それ以外は私には無力である。
所詮私の人生はそんなものである。
救いようがない人まで私には無力である。
それがわかってもらえないのが悲しい。
ただその一点に尽きる。
それで私にどうしろというのか犯罪である。
私には全く力がない。
せいぜい努力するぐらいしかない。
それだけのために私は生きている。
それを否定したら善良の市民や普通の一般庶民は成立しない。
一体私をどうしたいのかわからない。
そういう国民を増やすしかないと思う。
それ以外は私には無力である。
それなのに小学校の水泳大会で私に文句を言った彼は私には無力である。
どうぞご勝手にコースである。
私と関係のない人生しかない。
なんでここまで迷惑受ける筋合いもない。
ただあるのは私を知っているだけである。
それだけのために私は迷惑を受けている。
自分が否定されたくないからである。
そんなの私には不可抗力である。ほとんど彼の問題であって私の問題ではない。
もう脱線を四十代から続けてもう取り返せない。それが現実である。
それを私がどうのこうので正常にはならない。
迷惑の極みである。大人としては失格である。
もうちょっと自立した大人になった方がいい。それぐらいが私のアドバイスである。
あしたから土日である。元気出していきたい。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181102end
短歌と俳句
短歌十首更新
---> しのぶれど秋晴を受け走り出すどうなる事かわからぬままに 行雨
---> 人知れず思いはめぐる無駄話行くつく果ては地獄あるのみ 行雨
---> やる気無く仕事に向かう金曜日あと一日の辛抱かしら 行雨
---> 問題は他人ばかりがたえられず私に出来るものも無いのに 行雨
---> 何事も無かったごとくやるまでに時間のかかる思いあるかな 行雨
---> 無理もなく自然に近くやるまでに思い思いの一歩あるかな 行雨
---> 爽やかに晴れてうれしく歩くなり悲しいこともつまらぬことも 行雨
---> 秋のある十月にして日本晴悲しいこともつまらぬことも 行雨
---> 秋にしてやりくりしてる毎日をとなえてどこかもう一歩かな 行雨
---> 夜長にもやるだけやってまたあしたどうなることか展開読めぬ 行雨
/*仕事ある*/
/*あしたをむかえ*/
/*気合あり*/
/*やるだけやって*/
/*またあしたかな*/
/*仕事して*/
/*なさねばならぬ*/
/*物事も*/
/*どうなる事か*/
2018年10月31日水曜日
近況
すべてはうまくいくように仕事したり生活したりしている。
なので何か間違って仕事したり生活したりすると台無しである。
特にプログラムもそうである。すべてがうまくいかないとエラーである。
そのために最善を尽くすしかない。
それでもうまくいくのは神が偉大だからである。
そういう数学のもと成立している。
なのであんまりごまかしたりズルしたり証拠隠滅しても無駄な抵抗である。
ここで人間のやる事はベストを尽くし続けるしかない。
あらゆる人間がベストを尽くして組織が成立する。
それが出来なければ仕事や生活は成立しない。
それが限りなく神に近づくのは神の理論だからである。
人間が間違う事があってもそれを修正できる組織であるべきなのである。
それが人間の組織論であり神の理論である。
すべてが今がベストなのである。
そうやって神の理論に近づいているのである。
なんか間違っても今をベストにする修正をくり返している。
なので基本的にベストを尽くせないと仕事や生活は成立しない。
間違っているとか正しいとか以前にベストを尽くすしかない。
それが出来るのが普通の人間なのである。
それが出来ないと本当の戦争である。
損得勘定のオンパレードである。
そんな事考える前にベストを尽くすべきである。
だけどそれが出来ないというのが問題の根本である。
だから人間がベストを尽くせるような大人になるべきである。
逃げてたら駄目である。自分なりにベストを尽くすべきである。
そうやってベストを尽くせば神は裏切らない。
それが神の理論である。それが自然法則である。
パソコンもスマホもインターネットも数学で出来ている。
それが人間につながっている。そうやって限りなく神に近づいてる。
それに反して物事は進まない。
正しいことを続けるのはまさに神のおかげでしかない。
間違っても修正して限りなく正しくなって仕事して生活している。
だからこそ人間はベストを尽くすべきである。
それが出来なくなったら最悪である。
そんな最悪な人間になったらあかん。それが私の感覚である。
今日も書き込みしてしまった。
なるべくフェードアウトしたい。
どうしてこんな当たり前の書き込みをつづけなああかんのか文句たらたらである。
もうこの問題も終わりにして欲しい。
続け過ぎである。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181031end
2018年10月30日火曜日
近況
<<追記20181030
戦う男がまともであればあるほど平和になる。
軟弱な男と女が戦争の原因である。
いい加減な男と女が悪徳である。
そんなんよりまともな男が大事である。
それが平和を作る。
もう女なんてもめ事の原因にしか思えない。
女や老人に戦争なんて思考回路がいかれている。
そんなんより男がまともに仕事する方がマシである。
戦争が悪徳というより原因は人間にある。
人間がまともに仕事してたらそんな事にならない。
それが不可能だから男は戦うんだろうと思う。
それを逃げたら本当に戦争で戦わなければいけない。
戦争になること考えるよりどうしたらまともな仕事出来るか考える方が先である。
なので軟弱な男と女が悪徳である。
戦争にならないようにまともな仕事すべきである。
それが男がまともに仕事する要因である。
ようするに仕事が成立しないのが戦争の原因である。
各分野でしっかり仕事してたらそんな事にならない。
それも考えられなくて軟弱な男と女なんてどうでもいい。
なので私には他人のもうどうでもいい話にしか思えない。
それが毎日のストレスである。
それが戦う男がイカれている。それで仕事が成立しない。
毎日気分は戦争状態である。それが戦争の要因である。
国際的な戦争はそういう一人称から始まる。
みんな仕事が成立したら平和になるのに平和にならない。
それがもめ事の戦争の要因である。
戦争がどうのこうのより軟弱な男と女が悪徳である。
戦う男がまともであれば仕事が成立する。ただその問題の一点に尽きる。
それが私の毎日の戦争状態をあらわしている。
なので北朝鮮の波乱要因は仕事が成立しないことである。
北朝鮮の多くの人が仕事を成立させれば平和になる。
私はそう思う。
それはここ日本でも同じ状態に私はいる。
なのであんまり戦争が悪徳というより軟弱な男と女が悪徳なんだと思う。
そんなために私は生きていない。
それが私の戦争状態なんだと思う。なので私も例外なく戦っている。
戦わない男と女が悪徳なんだと思う。
なんか問題がマトモなこと言うか言わないかぐらいしかない気もする。
当たり前の常識としか思えない。
こんな当たり前も意味があるとしたら日頃から物事を考える必要を感じる。
なのでこんな事になるのを覚悟して生きた方がいいかもしれない。
今日も書き込みしてしまった。
今日は私の平和感である。それが世界に通じればいいけれど貧困は困った問題である。
仕事を成立させる。それだけで平和になる。
そういう私の当たり前感である。
そんな単純なことも私の悩み事である。
もうラクに生きたい。自由に生きたい。それが私の欲求である。
そして書き込みもフェードアウトしたい。
どうして私をこんな戦争状態に追い込むのか犯罪である。
なので軟弱な男と女がもめ事でストレスで悪徳である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20181030end