2018年9月2日日曜日

富士岡駅からJRさわやかウォーキング

<<追記20180902
今日は富士岡駅から御殿場駅までだった。
途中ブルーベリー狩りをした。
去年と二回目である。
傘使って最初歩いていたがブルーベリー狩りする時は雨はやんでいた。
御殿場線と歩いている時と昼食は良く二人で話をした。
それでどうにかなるわけでもないけど
それが現実だよなあとは思う。
それが他人には欠如している。
それを障害と言ったら解決する問題なのかと思う。
私には障害の意味がわからない。
日本語が通じないのを障害というのか物事を理解出来ないのを障害というのか
体が不自由なのを障害というのか
障害だけで片付く問題じゃあ無い気がする。
ほとんど障害で片付けるのは問題があり過ぎる。
そんな障害でも理解できる事があるの方がよっぽど大事である。

ほとんど現実感覚が欠如しているだけである。
それを障害と言ったらみんな障害である。
天才だけまともになる。
そんなんでいいのか問題あり過ぎである。
普通の人が受け皿にならなくて世の中が良くならない。
その普通の人が障害だなんて言ったら
みんな障害である。
そんなんで世の中動いていかない。

ほとんど教育の失敗からはじまっている。
そんな大人を作り出した責任は重大である。
私には無抵抗である。ただあるのは現実だけである。
その現実を受け入れられないのは私のせいではない。
他人のせいである。理想に埋没しているだけである。
そんな人を私はどうしようもない。
他人の理想が私を拒否する理由ってだけである。
その理想が完璧だったらいいけどそうじゃあない。
迷惑も甚だしい理想である。それがわからないから永遠に成功しない。
それを私がどうしようもない。
そんな迷惑な他人を救えるほど私には理想がない。
とにかく絶対私を許せないってだけである。
私はどうでもいいのに他人は許せないのである。
それも理想のためである。そんな事につきあわされて私はどうしようもない。
なんでそれが私に関係あるのかわからない。
私を不幸にさせているだけである。それで構わないと思っている。
結局水と油である。私としてはとりあわないぐらいしか対処出来ない。
会話の出来る人間じゃあない。それを理解してもらわないと私はいつも困る事になる。
それが私なりの正当防衛である。
会話の成立しない人間をこの世は作ってしまったのである。
本当に教育って恐ろしいものである。
理想で何とかなるものでもない反例である。
現実に直面する機会が少なすぎる事例だと思う。
つまり現実に逃げてきたという事だろうと思う。
リベラルにも保守にも理想と現実の葛藤は必要である。
それがないととんでもない事になる。

そんな事よりなんかいい仕事はないかと二人で話してた。
それで思いつく事もないけどそれが二人の理想と現実なんだろうと思う。

それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20180902end





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