2019年4月20日土曜日

伊豆仁田駅からJRさわやかウォーキング

<<追記20190420
今日は伊豆仁田駅から広小路駅までだった。思い思いに歩いた。
疲れたには疲れたけどそれぐらいがちょうど良い気もする。
なんか平日になって元気が出てくる気がする。
人間って不思議な生き物である。疲れた方がまだマシだからである。
人間だけじゃあないかもしれないけれど考える事は人間だけのような気もする。
それが何を意味しているのか人間は考えた方がいいからなのかなんなのか
行き着く先は神に近づいている気もする。
だけどやっぱり当分は神様になれない時代だろうと思う。
私が生きている間は近づけないと思う。
だけど近づこうとしないと未来が見えてこない気もする。
神様がいるような気がしないとなかなか発想が難しい気がする。
無から生み出すのは至難の技である。神様がいると孤独にならない。
自然と一緒に神様といると発想しやすい気がする。
それが人間の不思議な所のように思う。神様信仰はダテじゃあない気がする。
そうやって可能性が見出されてきた気がする。
神様に寄り添ってこそ協調が生まれる気がする。
やたらむやみな個人主義は神様の冒涜から生まれている気がする。
それでエライ人間が出てくる。それが厄介な他人のはじまりのように思う。
そんな問題のほとんどは神様がいれば解決するように思う。
もっと普通にしていられるのは神様のおかげである。
そんな世の中にせなああかん。一個人が出来る出来ないなんてナンセンスである。
なんとか大人がやっていける世の中が大事である。
それがシステムであり神様であり自然である。

それなのに出来る出来ないなんて言っているのは個人の都合であって
私にはどうでもいい。
もっと神様にちかって生きれるようにした方がいい。
神様を裏切るような生き方しない方がいい。
それが人間の協調を生み出す気がする。それが日本の神様信仰のように思う。
日本は神仏習合である。それはなんか仏にだまされている気にはなる。
そんな風に生きれたら良いなあとは思う。
だけど私には苦痛を感じて生きている手前程遠くなっている。
ブッタがいれば本当にそんな生き方出来るのか聞きたいぐらいである。
だけど挑戦としては理想のように思う。
私は大学浪人で幻聴が起こり精神がくずれてからそんな挑戦は無理になっている。
単純な気持ちで生きれる方が優先になっている。
もっと大きな世界観は持てなくなっている。
そんなこんなで悟りには程遠くなっている。それでも色んな事を勉強してきても
気持ちには単純さがつきまとっている。
そうじゃあないと自分が支えきれない。それなのに私と比べてどうすんのと思う。
体力的に精神的にもっとどうでもなる人に努力が足らない。
本当にこの世は罪悪で出来ているとしか思えない。
もっと仏になれる人いないのかというのが私の本音である。
それが私には困難であり他人に対する気持ちである。理想に程遠い気がする。
観音菩薩はいるけど如来がいない。そんな感じが今の状態である。

それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20190420end





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