今日は東田子の浦駅から吉原駅だった。だるま市で菓子を買って帰った。
堤防沿いを大体歩いてきた。
残念ながらくもってて富士山は見えなかった。
私自身平和の産物だと思っている。なのであんまり神風連のような思想は理解できない。
それでも自然法則に神は感じられる。
日本刀とか拳銃とか大砲とかロケットで物事が解決する気がしない。
それぐらい時代が変わってしまった気がする。
必要なのは科学ぐらいしか思いつかない。それが私の感覚である。
そうやって平和の産物の私が色んな事をやってきたのは基礎学力だろうと思う。
大学入試が基礎学力じゃあ無く色んな事をやってきたのが基礎学力だろうと思う。
そんな手前武器があって物事が解決したわけでない。
だからこそ平和の産物の私なんだろうと思う。
この事実が戦後にかけて時代が変わり果ててしまったように思う。
平和だからこそやり遂げてしまった気が私にはする。
そんなこんなで三島由紀夫の本が三巻目である。
何となくこれだけで三島由紀夫の趣旨とくい違っているのかもと
父の話から感じられる。それでもなんとか読み通したい。
とりあえず今日の午後は時間がある。
ゆっくりして仕事に備えたい。
それでも読書している気はする。録画も一本消化したい。
そんなこんなで元気とは不思議である。そんな思いで一日一日が過ぎる。
平和だから元気のように思える。それが私の平和の産物のように思う。
私には一切武器は無い。
それなのに他人が私につらくあたるのは他人が平和じゃあ無いぐらいしか思いつかない。
もうレベルが平和か戦争かお互い異なるぐらいしかない。
私はそんなに他人につらくあたらないでやってきた。
平和のようで平和じゃあ無い人が問題起こしているだけである。
私にはそんなのどうしようもない。
やる事やってたら平和でいれる。
それが私の認識なのにそれを否定するのは私にはどうしようもない。
一体私はどうしたらいいのかわからない。ただ他人がどうしようもないだけである。
それでどうして私が悪いのかわからない。
そうやって世の中は調和をはかれる気がしない。
それが私を戦争状態にもっていく。それは他人が悪いのであって私のせいではない。
ひたすらに私は平和状態に持ち込んでいる。
それが私と他人の対立であり平和と戦争の対立である。
なので私は私の中にいる方が平和なのである。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20190211end
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