2019年2月20日水曜日

雑記

<<追記20190220
何かどうにかしたくなると何か思いつく気がする。
それが普通に暮らしててもあり得る気がする。それが私が人間を否定しない根拠である。
そんなに仕事しなくても勉強しなくてもとは思いつつも私は私なりにやっている手前
どうもその辺は半信半疑である。なんかやっているから思いつくのかもしれないし
そうでもないかもしれない。それが私を他人に対して受け入れる要素である。
それなのに精神障害者というだけで否定されている。
インターネットでは病気のせいにされる。それでも私は自分の可能性を信じている。
そんな現状に暗い気持ちになる。

なので私が表に出たら裏はどうなるだろうと思う。
私はあがりでいい気がしない。それが複雑な心境である。
裏でもがいてる人がいる。結局可能性の追求でしかない。
可能性の追求してたら表に出るしかない。表に出たら裏を見せるしかない。
そうやって他人に説得するしかない。表を見せて裏を見せるしかない。

私の表と裏は他人に対する表面の事を言っている。
私が表に出れば他人は裏という側面も言っている。
私が裏表があると言っているわけではない。
ここまで書いてきてあんまり裏表無いようになっているけど
書いてない事もたくさんあるのは事実である。
私としては誤魔化して仕事しているわけでない。
仕事が成立するように仕事しているだけである。
それなのに未だに誤解されるのは誰かと言えば私には必然である。
私には無抵抗である。
どうしてそんな曲解が成立するのか当時から相手にしたくない人だった。
小学校から中学校まで変な奴だった。
高校時代に私に脇毛なんて言う奴そいつだけだった。
私なんか調べるよりそいつを調べた方がいい気がする。
結局努力とは何かを知らない人だと思う。それが私に何の関係があるのかわからない。
そうやって私に期待値の話をさせたり
リコールの話をさせたり何で今までそんな話を私が参加しなかったのか
全然わかっていない。もっと勉強不足である。

なのであんまり他人に現実を示すより楽しくやった方がいい気がする。
可能性の追求とは他人に好かれる事らしい。
色んな事が可能になれば嫌でも好きになる。そういうものらしい。
私は好きでそう言ってる気はしないがそう思ったらしい。

それでもこうすれば解決するのではというのが私の発想でもある。
それが何かどうにかしたくなる心境の時である。
そこまで持っていくのが日々の生活である。
そんな事を秀才も凡人もやらなあ周りに理解されない。
それなのに平気で他人を否定するのはどっか考えがおかしいと思う。
変な事が起きているんだからそれに気づくべきである。
それに気づかない秀才も凡人も最低である。

それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20190220end

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