<<追記20180530
今日も仕事した。
昨晩も読書した。今夜もしたいなあと思っている。
帰宅途中で少しRuby on Railsを少し読んだ。
行き帰り短歌を一つずつ計二首作った。
あんまりひどい扱いだと思いつつ
今を継続している。
他にいい所も無いし自分の生活する方が大事である。
今まではうまくいったけど
これからはどうなるのか私にはわからない。
まだまだやりたい事はあるので今の所心配していない。
問題はやりたい事が無くなる事である。
そんな事があるのかさだかではない。
そしたら本当に仕事しかなくなる気はする。
それもむなしい人生だなと思うけどそれはそれでありえるパターンかなと脳裏によぎる。
それでも読書量的にまだまだ一年で終わりそうでもない。
なので気長にやるしか思いつかない。
昨日法華経を読み終えた。小説は1/3の程度進んだ。
法華経の部分で常不軽菩薩のところで結構感動した。
NHKのテレビではあんまり感じなかったけど
本ではそこがクライマックスのように感じた。
なんとなく私もそんなところあるような気がしたからか世の常としてありえそうだった。
仏教としても大事な部分なんだろうなあと思う。
この世の誰がエライのかわからんところがまさしく常不軽菩薩になりうる原因だと思う。
どんな奴でもそれなりに軽んじず尊び話をする。
それぐらいしか方法論がないのである。
誰もあてにならない。ひたすら軽んじず尊び話するしか方法がない。
それで悟りを開くのは私自身思うにありえそうである。
それがなんか法華経のクライマックスに本では感じた。
それでもなんかその根拠はどこにあるんだろうとは思う。
今の時代科学の根拠の方が強烈である。
いくら中国やインドの歴史が四千年以上あっても
今の科学の方が根拠がある。
アメリカの科学の方が優位に思える。ここまで文明が発達したのも科学だろうと思う。
ここまで歴史が生み出したものにも何かしらの根拠はあっても
科学で明らかにすべきだと思う。
短歌や俳句もそうである。
なんで575とか57577で季語があったり枕詞があったりするのか
科学で明らかにすべきである。
その点仏教に深遠な考えがあるなら科学で明らかにすべきである。
それが私なりの実感である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20180530end
<<追伸20180530
最近は口語で短歌や俳句作る事ばっかりである。
それも文語の影響を受けているから短歌や俳句が作れる気がする。
まさに国語の勝利だろうと思う。
明治まで文語を続けた短歌や俳句の影響が
口語にも影響受けているのではないかと私は思う。
それぐらい短歌や俳句は国語に直結しているのではないかと思う。
国語の先生は最悪だったけど当の国語は勝利しているみたいである。
中学時代の国文が俳句や短歌に影響するなんて想像してなかった。
それも大学入試にしか興味のない人とは違った人生になった。
大学入試でも国文やるべきだと思う。
もっと人間悩むべきだと思う。悩みが足らない現状に不満たらたらである。
それでも国語は勝利しているとは皮肉である。
みんな基礎学力が足らない以上終了である。
<<追伸20180530end
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