2020年7月22日水曜日

雑記

<<追記20200722
私からすると昔の書いた文章が稚拙ということが無い。短歌も俳句もである。
多分その当時の気持ちに押されるからだと思う。変わったところと言えば細かく文章を書けるというのと
短歌も俳句も技術がアップして色んな表現が出来るようになってきたぐらいなのであるが
文章は気持ちが大事のように思う。その時々の気持ちが私を押している気はする。
だから昔は昔の気持ちがあって私にはそんな事もあったよなみたいな気持ちがする。
それはそれで共鳴するのである。だからあんまり昔の文章は文章で尊重したい気もする。

だけどここまで文章を書いてこれたのは仕事の影響を受けている気はする。
我慢して仕事している分その我慢している文章を書けている気がする。
あんまり余裕のある仕事なら余裕のある文章しか書けなかった気がする。
そうやってギリギリ生きている文章が書けた気がする。
そんなギリギリで積極的に生きる文章になったのは仕事のおかげのように思う。
本音はもっとラクに生きたいけどしょうがない。

ともかく今夜から連休である。頭にあるのは運動と庭の草抜きである。
今日は仕事で疲れたからゆっくりしようかと思う。
おばさんに仏壇の線香を立てに行く。なかなか良い報告が出来無くてすまない気はする。
あまりに無駄な時間が経っている気はする。結果は大学浪人の頃から着いている。
それなのにものすごく周りの影響を受けていると思う。
ほとんど私の問題じゃあないと思う。それが今も続いている。
ひたすらに私は私で真面目に生きてきただけである。それだけのことにモメている。
問題はほとんど他人のだらしがなさからきている。

私の思いはもっと他人が頼りになる社会にすべきである。
それが全然頼りにならない。もうちょっと頼ってなんぼみたいな社会にすべきである。
そのため自分しか解決方法が見つからない状態である。
それがそのまま日本経済の停滞に原因している気がする。
もっと日本の大黒柱になる人がたくさん必要である。それが私の思うたくさんの秀吉タイプである。
そういう仲間が出来ると良いなあと漠然と思っている。

ともかく連休である。何とかテーマが見つかるまで書き込みを減らしたい。よろしく。
<<追記20200722end

<<追伸20200722の小言
東洋哲学のわかるというのは体感だそうである。理屈がわかるじゃあないらしい。
それがおじさんの言いたい事だったのかと思ったけど父親に聞いてみたかったなと最近思っているけど
それがかなわなかった。ここまで本を読むようになったのは一人暮らしの影響のように思う。
気楽だけどあんまり他人との相互作用が小さいかもしれない。
それでも仕事仲間の会話で影響を受けている気はする。
それでも私は悟ったと言えるのかそれはそれで幻聴は苦痛である。
その苦痛が悟りと程遠いように思う。なのであんまり穏やかになれない。
ひたすらに耐え忍んでいる。そうやって他人が頼りにならない。
自分で解決した方が早い。それを神様はどう思うのか私にはわからない。
今週もボチボチやりたい。
<<追伸20200722の小言end

0 件のコメント:

コメントを投稿