<<追記20200425
話をする一番大事な部分は「AならばB」を明らかにすることである。
「AならばBかつBならばAならA=B」
「AならばBかつBならばCならAならばC」
「AかつB以外はA以外またはB以外」これは逆も真
「AまたはB以外はA以外かつB以外」これは逆も真
「AならばBならB以外ならばA以外」これは逆も真
こんな論理学もあるけど一番大事なのは「AならばB」を説明することである。
それをたくさんリスト化して何が説明出来るのかが大事である。
それがもっとも理解出来る話である。今の現状を理解出来るもっともな方法である。
そんな説明が科学的にも論理的にも数学的にももっともな話だろうと思う。
そんな説明が出来無くても「AならばB」ぐらいは話すべきだと思う。
それが情報の価値だと思う。それが生きている価値だと思う。
私は挑戦も大事だと思う。だからあんまり失敗にこだわること無い気がする。
そのうちの何個が成功すれば良いと思っている。
だけど他人に話すときは妥当性を求める必要がある気がする。
だけど憶測でありえそうな話も成立すると思う。
しかし成功するか失敗するかわからない話自体は成立しない気がする。
こんな事をやってみる話は成立してもその先の結果までは成立しない。
結果は結果待ちでしかないと思う。こんな事をやってみる話は成立しても
結果までは予測不可能である。
それでも科学は未来予測がおぼろげに見える。それはそれを説明すべきである。
何となくありえそうな話が科学にはある。それを説明してこそ科学だろうと思う。
それはそれで「AならばB」である。
そんな説明を求められたのが私の修士生時代だった。
それが私の言語の形成になっている気がする。そしてその延長が今だと思っている。
そこまでかかったのはブログの書き込みの経験だろうと思う。
私の頭にあるのを書き込んではじめて自由になっている気がする。
そんなに自由になるほど書き込むのは大事だと思う。
考えていることすべてを書き込めるからである。それは数学も物理も同じである。
それが可能なのはなんべんも書く事に挑戦しているからである。
それではじめて書く事で発想が浮かぶ気がする。それぐらい自由になる事は大事である。
それぐらいのことは人間に出来るのである。それをせずしてテストで終わっている。
それが学歴と職歴の犯罪である。生きている以上自分の考えていることぐらい
文章にすべきだと私は思っている。それに妥当性があるのが学歴と職歴だと思う。
文章に妥当性が無いのはまったく生きている意味が無い。
それが私の実感でもあり私の格闘である。
<<追記20200425end
<<追伸20200425の小言
そういった人間の間に論理が成立しないのがこの日本なのである。
なので一般人が活躍するのは当分難しいというのが私の本音である。
あっちこっちでそんな論理が成立しないと難しい。
バカとアホにはそれがわからない。それが私を比較対象にする理由である。
私が何をやっているのかが理解出来無い。それがこの現状を引きずっている理由である。
どうしようもないバカとアホが私を認識しないのが問題なだけである。
私はひたすらにどうしようもないだけである。
そんなどうしようもない奴私には無抵抗である。話が成立しない。
それを身をもって理解出来る奴で共有するしかない。それが本音である。
<<追伸20200425の小言end
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