今日はスタートが清水駅ゴールが興津駅付近だった。
寒桜も一部散ってて時期が例年より早い気がした。
幸い青空で春が来る気がした。水仙もあった。
昨日今日歩いて疲れた。今週は変則的な日課になっている。
昨日は外国語やったけど今週は色々やっていない日課が出てきてしまった。
いろいろ考える事もあってそれどころではなかった。
やっぱりペースがみだれるってあるよなと思う。
予測不可能な事が起きるとそうなってしまう。
予定通りに終わらない。それはほとんど他人の影響が強い。
お互いいきているから仕方ない。それも何とか吸収して来週にペースを戻したい。
一応私に出来る事はやっておこうと思っている。
もちろん出来無い事もあるし不可能な事もある。
それでも自分の出来る事はないか考えている。それをしらみつぶしにやるだけである。
あんまり残された宿題は外国語ぐらいである。
あとは仏法かなあと思う。悲しみに暮れるという事のように思う。
バカもアホもエリートも悲しい性である。
それをひたすらに悲しみに暮れるというのが仏法のように思う。
そんなに勉強して何がしたいのという悲しさであり
そんなに文句と問題を起こして世の中最悪の悲しさである。
そうやって悲しみに暮れるのが仏法である。
あんたら世の中をどうしたいのという悲しさである。
神様はそんな世界を作っていません。神の冒とくである。
ほとんど人間側の勝手である。それがそのまま悲しみに暮れる。
もっと真面目にいきれない。何がしたいのかなんて二の次である。
そんな手前世の中利己主義だけが残る。本当に悲しみに暮れる。
こんな世の中にしたエリートとバカとアホに悲しみに暮れる。
そうやって悲しんでたら仏法である。
私自身そんな悲しみの中にいる気がする。本当にツライ。
だけどそれが仏法である。何となく笑いも悲しいから笑う気がする。
自分が悲しみの中にいるから笑う気がする。
何にも私が悲しさを感じていなければ笑わない気がする。
悲しいから笑う気がする。それが私を面白くしている気がする。
その悲しさが伝染しているかわからないけど
悲しいから孤独だし悲しいから神様を探すし悲しいから悩むのである。
その矛先が笑いにつながっている。
次回は火曜の休日を予定してます。
一応下曽我で梅園です。梅干し買いたいなあと思ってます。
<<追記20200209end
<<追伸20200209の小言
今週は変則的だったので例外的に思いっきりゆっくりしようと思います。
それでも歩いているので疲れてはいます。
今日も良く寝れそうです。
悲しさと笑いの対比それが私自身際立っている気がします。
それがまた発想につながっているかもしれません。
そこには仏法の対比として神がいるような気がします。
色々対比の中で何かを見出している。それが私の仏法なのかもしれません。
それでも基本的に毎日私は悲しんでいます。それは間違いありません。
よっぽど一人で生きた方がラクだと思います。
それも私の幻聴でそれをさせてくれません。それで毎日悲しんでいます。
ともかく明日は仕事です。ボチボチやりたい。
<<追伸20200209の小言end
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