2018年8月22日水曜日

雑記20180822

<<追記20180822
今日も仕事した。
あんまり思いつく事もない。
まあ私なりに思索してみた。
それでどうなるのか私にもわからない。
ただあるのはやるだけやっとこうである。

存在しないものが共有される。
存在するものが共有される。
どっちもどっちである。
どっちかと言うと
存在するものが共有される方が健全だと思う。
ラインが存在しないとか
ツイッターが存在しないとか
SNSが存在しないとか
それも人生かもしれない。
それでも無くて困る人はたくさんいる。
そんな手前
物語だけの話のように思う。
そんなことより
何が可能なのかの方がマシである。
そうやって色んな事を思いつく。
存在しなくても何が可能か考えればそれも人生である。
可能な限り自由になることである。
そのための存在である。
自由が可能なるために存在がある。
なので存在ありきじゃあない。
無くてもあっても可能にさせる自由がある。
そのためだけに生きている。
あんまり代用がきかないと
能力も低下する。
やっぱり道具は必要である。
そういう道具を見つけてくのが東洋人なのだと思う。
西洋人とは異なると思う。
色んなものを認識してものにしていく。
それが存在なのだと思う。
逆に神が死んだのもそういった格闘だと思う。
だけど存在は神が存在している原因だと思う。
なので
存在するものが共有される方が健全だと思う。
神に感謝するまでになって
私の苦痛もまだ続いている。
腹が立つけど
最近までは神に感謝なんて無かった。
それぐらい苦痛だった。
人間を取り戻すとはこう言うことだろうと思う。
それが西洋人と東洋人の違いのように思う。
なのであんまり私は存在するものから考える。
存在する不思議が神様への不思議である。
苦痛も通り過ぎて神様の感謝をようやく手にした。
存在そのものが不思議である。
それって極めて東洋人らしいと思う。
なので谷崎潤一郎は西洋ぽい気がする。
時代が時代というのもあるかもしれないけど
私は私で道具を手にして使いまわしている。
私が失われたものと言ったら若さかなあと思う。
それとも頑張ってみようとする愛かなあ。
経験か若さか愛か私も微妙な歳である。

それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20180822end

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