<<追記20180603
今日は蒲原駅から新蒲原駅までだった。
途中助長なコースだった。少しだけショートカットした。
昼食は沼津でした。
あんまり生活に直結しない勉強を私に聞かれてもどうしようもない。
それだけの脳力がないだけである。
いくら私が教えても理解できない現実しか残されていない。
それでも機械は便利だし
写真や文章を残してデータベースとしても
容量が大きくても処理が早くてもパソコンがなんでこんなに言うことを聞いてくれるか
私が言っても本人にわからなければ何を言っても通じない。
特に物理はその最たるものである。
私が思いついた18歳の春から26年経っている。
それでも現実はその頃に追いついていない。
劇的に生活が変わるはずである。アフリカだって変わるかもしれない。
それを私が言っても生活に直結しないというならほとんど私には無抵抗である。
ただ単にそんな脳力がないだけである。
それで最近は文章を作る人工知能に期待している。
今週はmecabという日本語解析のアプリをインストールした。
PythonにcabochaをRubyにnattoをインストールした。
昨日はcudaやcuDDNをインストールしたが
私のiMacにはGPUが無いらしくて無駄足だった。
そんな事が何になるのか自分で考えなくては先は進まない。
他人は誰も考えてはくれない。自分で考えられないのは自分の責任である。
それで勉強は何のためになるのかなんて私は教えられない。
色んな事が複合的に重なっている。
そんなに簡単にぽんと新しい技術は生まれない。
いろんな要因が重なって新たなものが生まれる。
その一つ一つを勉強しなければ新しいものは生み出せない。
そんな手前勉強は何のためになるのかわかった時は一つの成功ぐらいしかない。
そうやってもんもんと勉強するしかない。
そうやって勉強をあきらめたら私は何も教えられない。
それが現実だと思う。色んな可能性を感じながら勉強できる奴しか教育は無理である。
そんな手前ほとんど男と女の問題はあきれはててる。
そんな暇があったら何かやっている方がマシである。
暇な奴の権化にしか聞こえない。
正直つまらないしどうでもいいし通じない。
もうなんか脳力のない発言しか聞こえない。
それが私に何の関係があるのか理解不能である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20180603end
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