2018年2月3日土曜日

大場駅からJRさわやかウォーキング

<<追記20180203
今日は大場駅から柿田川経由して三島田町駅がゴールだった。
くもってて富士山は見えなかった。
ほとんど歩くのが目的だった。
三島駅でラーメン食べて大阪の話をした。
昔話でありもう私には過ぎた話である。
あんまり関わりたくないというのが本音である。
ここ伊豆の三島にいて私は救われている。
あんまり変な神経使いたくない。
まっすぐ生きたい。ここにいて疲れるような神経を使わずして生きれている。
それを昔話みたいにわざわざ掘り返す気はしない。
出来るだけまともな神経を使いたい。
それがウォーキングでも同じである。
また仕事も同じである。
淡々と仕事をこなすとか淡々と歩くとか
あんまり特別とか卑下とかなく黙々とやる。
それが普通にしてられる要因である。
それが出来るのは毎日課題を少しずつこなしているからのように思う。
過ぎていれば山のようになっている。
最近の録画や読書でなんとなく感じる。
1日で無理な事も年月を経るとウソのようである。
それがウォーキングや仕事に出ている気がする。
何にも特別や卑下なんか無くても普通にしてられる。
それが私の幸福感である。
そんな状態で複雑で変になりそうな神経を使いたくない。
もう勝手にしてくれというような気分である。
それがあんまり大阪の話するのもやめたいぐらいだが
静岡駅内の蕎麦屋に大阪人が通った話つながりで大阪の話になってしまった。
なんか色々思い出ではあるが
疲れると言えば疲れた。
どうしてまともな話もできないのを教育というのか私には理解ができない。
ほとんど教育者の責任だろうと思う。
変な理想のせいで私は被害を受けている。
それを本当に理想というのか私には理解ができない。
ほとんどひとりよがりだろうと思う。
私にとって良い事はない。
そんな暇あったら自己努力している方がマシである。
そうやって他人の努力もわからないのになんで理想が出てくるのか理解不能である。
そうして私は大阪が出てくると疲れる。
今日も疲れた。もうちょっとまっすぐ生きれる環境にいたい。
それが都会の大阪にはない。
ウォーキングをやってまっすぐになる。
それが伊豆の三島で実現している。都会の大阪には理解不能だと思う。
これが教育者に届いているのか私には疑問難問である。
普通でいれないそれが大問題である。
それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20180203end





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