2022年8月20日土曜日

雑記

 <<追記20220820

今回のブログのテーマは数学と物理である。ブログの最初はイコールつまり=の事である。

=には値もあるし式もある。左辺と右辺に両方とも同じ値を足したりかけても割ってもイコールになる。

変数の数と式の数が同じでないと一次方程式は解けない。それが大学になると行列になって三角行列にするか固有値を求める事で解ける。

その一次方程式が線形なのである。一次方程式以外が非線形である。

そのため物理では微分と積分などで線形に直して計算する事が多い。それは大学入試の物理も変数の数と式の数が合わないと計算出来無い。

y=Ax+1とかy=Ax^2+2x+1とかy=-Ax^2-2x+1とかがどのように上に凸下に凸か想像出来るのが高校生レベルである。

それぐらいx^nのn乗の項が増えるほど波が増える。なので三角関数は無限級数である。ちなみに級数とはxのべき乗x^nという意味である。

最小二乗法はデータ値からy=ax^2+bx+cを求める方法でそれも行列計算で求める事ができる。

それぐらい行列で証明されているので行列の固有値が求められると行列計算である。

他にも統計は色々あって正規分布とかボルツマン分布とかヘイズ統計とかもある。

べき乗の最高関数は指数関数でべき乗の最低関数はLOG_e関数である。私は計算器で遊んだ経験があるので0から1までの値をべき乗していくと0になる。

なので三角関数の無限級数展開もべき乗を増やしていくと0に近づいていくのである。なので小数何桁の有効数字が判明するのである。

それで級数展開には微分が関係している。三角関数が微分出来るから級数展開出来る。


イコールの証明も高校のレベルのように思う。「右の式から左の式」と「左の式から右の式」が成立しないとイコールにならない。

イコールは物理と化学だと平衡状態の式である。他にも証明は中学では背理法、高校では帰納法がある。

かけ算は(10+2)^2とか(100+2)(100-2)とかで簡単に計算できるかもしれない。

2n,2n+1は整数3n,3n+1,3n+2も整数そうやって色んな整数を表現できる。だけど一番大事なのは位置と速度と加速度のように思う。

それぐらい小中高大と考え方が変わる。高校では微分と積分とベクトル大学では解析力学と量子論が影響していると思う。


本当に私が思い残す数学は微分形式のベクトル計算と複素関数論である。今まで必要にせまられないから課題に残ったままである。

他には図形の証明のための補助線である。多重積分も失敗した経験がある。

それはそれで失敗しているから用心は出来る。本当は一次方程式の行列計算にもテストの時テスト前に友達に説明して混乱して失敗している。

それはそれで色々身構えるものである。それぐらい計算してみないと感覚が残らない。


正比例とか反比例とか放物線とか双曲線とか楕円とかもある。何か大学の時にこんな数学が気になったのを思い出しているけど

何だったのか思い出せない。三体問題の時かなあ?それぐらい色々数学が気になるのを思い出す。


何か説明してみて計算が面倒なだけで大したことないなと思った。それぐらい計算が自分の体に創造力を与える気はする。

それぐらい計算をやってみないと経験にならない。失敗ものりこえる動機である。

それで思い出すのが階乗の計算である。例えば17!の計算自体が面倒である。こんなんが実際に出てきて困った事がある。

なので計算器とかパソコンで計算した方がラクである。そういう経験がノラリクラリ感である。

実際積分だって微分だってパソコンで計算できるからである。


結局、数学と物理については以上で終わりである。あと気になるのは本題の物理ぐらいかなと思う。

それはもっと私の評価次第で決めようと思っている。それぐらい私の人生そのもののように思っている。

深く私の人生に関わる問題である。


来週のテーマは哲学かな。どんな感じで哲学を感じて今の状況を説明しようと思う。私の専門外だからあんまり期待しないでください。

来週もボチボチやりたい。

<<追記20220820end


<<追伸20220820の小言

私は文章を書く時点で制限を感じる。だから自由に向かって書く事にしている。

それぐらい自分の知識と常識が他人に通じるとは思っていない。

出来るだけ自分がどういう自分でどういう風に感じているかそしてどうやって自由にしようとしているのか書くようにしている。

だから私は自由への行動は人間の動機になり得ると思う。それが出来無くなったらそんな法律と憲法は間違っていると思う。

自由への運動は民主主義の根幹だと思う。だからこそ民主主義は自分勝手じゃあないと思う。

民主主義こそ自由の闘争なのだと思う。そこで勝ち得た価値こそ神様の道だと思う。だから私は自由の女神を信じる。

それぐらい人間は限界が見えてこそ自由に向かって行動すべきだと私の人生からそう感じる。

そんな抵抗を感じない人間は幸せだけど何も価値を見出せないと私は思う。

それぐらい自由の道はチャレンジなのだと思う。それが出来無い人が私に迷惑を与えているわけでそんなのは軟弱なのである。

要するに論外なのである。それぐらい自由の闘争がなっていない。

私に迷惑を与えるよりはどうやったら自由になるか考えた方が良い。私にはそんな他人と関係が無い。

それぐらい他人は上から下で成立している。私は物事の妥当性を問う人間だと言う事だろうと思う。

それが私の自由への闘争なのだと思う。それは私に重くのしかかる環境の制限がそうさせていると思う。

書く事でさえそういう事なのにあらゆる事が自由に関係している気がする。他人を困らせなければ自由が一番である。

それを足がかりに可能性が上がる。それなのに私を困らせて何の得があるのかが理解不能である。

そんなのを平等じゃあ無いにした方が良い。それぐらい何を自由と言っているのか平等と言っているのか人それぞれなんだと思う。

アメリカもイギリスからの不自由が自由に向かった。それがアメリカ国民には正解だったのである。

不自由を突き抜ける自由の原動力が神様の道なのである。日本も色んなしがらみから自由になるべきである。

それが日本人の成功体験になると私は信じている。自由は与えられるよりは自由を獲得すべきである。

つまり現状の不満よりはどうやったら自由になれるか考える事が人間の本分である。それが自由の女神の正解である。


土日は、洗濯、炊飯、メールチェック、短歌と俳句、テレビの録画、月曜の弁当を最低やりたい。


来週もよろしく。

<<追伸20220820の小言end

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