2022年6月25日土曜日

雑記

 <<追記20220625

何となく私は私でゴールしている気はする。慣性座標不変のガリレオ・ガリレイぐらいにはなっていると思う。

それぐらいのインパクトはあった気はする。それだけで私は十分である。不満は生活と仕事ぐらいである。

だけどそれについて改善する気が社会に存在しない。それぐらい社会は障害者に冷たい。まともなビジネスマンを考えていない。

それぐらい学歴職歴がボロボロである。その不満が誰もアインシュタインも含めてその物理の重大性に気づかない。

まぐれでも良いから私と同じ発想になる奴を待っている。今の所そんな期待も無い。何が東大なのか私は残念な気持ちである。

なので私の方は学歴職歴なんて無意味だと思っている。だからあんまり会社も大学も社会も信じていない。

それでも人間は哲学出来る。それが私の主張である。誰もマトモでなくても哲学出来る。それが私の思いである。

なのに他人は強権的である。私の方はサバサバしている。それを定まっていないとしたら犯罪大国日本である。

それぐらいおかしな日本である。日本全体がイカレテイル。

なので何にも日本に期待していない。最悪最低日本である。そんな事はハッキリしているので勝手にしやがれである。

だからサバサバして定まらないのかもしれない。それぐらい日本が最悪最低である。


もっと障害者の立場を良くしていかないと日本の未来は暗い。それに気づいている人がいない。

それがそのまま仕事環境の悪化をあらわしている。環境改善が置いてけぼりである。ドンドン条件が悪くなる典型である。

そんなスーパーマンを求めたら仕事は成立しない。普通に仕事して当たり前である。

それが出来無いスーパーマンなのである。そんな仕事を成立しても環境改善にならない。


私には日本社会が健全に思えない。だから会社も大学も社会もあんまり変わらない。自分の事だけ考えている。

それがあんまり良い日本社会に思えない。そんなバランス感覚がマヒしている。

他人がいて自分がいる。自分がいて他人がいる。そんな協調関係のあるバランス感覚が存在しない。

なので人間哲学した方がマシになっている。物理だってそうである。物理哲学した方がマシになっている。

色んな人がいて自分が成立している認識が甘い。結局物理にしろ哲学はどこでも出来る。それが私の持論である。


今週の土日はさわやかウォーキングが土曜にある。日曜日はフリーである。

予定として洗濯、短歌と俳句、炊飯、メールチェック、テレビの録画、弁当作り、土日の日課がある。

私は何のために生きているのか多分何かがしたいんだろうけどそれが何なのか私にもわからない。

私にはそんな感じが当たり前のように思う。それを回避しても幸せのように思えない。

自分で何かがしたいと思わないと幸福につながらない気がする。そうやって自分が身構えるからこそチャンスだと思う。

なので私は独立独歩してもそれだけの価値があるというのが私の感覚である。

常に頭で会話しないと物事は展開しない。それぐらいのことは頭にないと他人に振り回される。


私はあんまり競争したくない。マイペースに過ごしたい方である。自分がマイペースに出来る事が私の中心にある。

競争なんてあんまり気にしていない。いつも時間との勝負である。

ただ私の残念な気持ちはもっとまともなビジネスマンをしたかった。それぐらい差別を受けていると思う。

私をあんまり戦力と見られていない。そんな事は給料でハッキリしている。法律が事実上逆差別になっている。

それぐらい企業側に口実を与えている。フルタイムのようにマトモに働く気がしない。それが本音である。


来週もボチボチやりたい。


<<追記20220625end


<<追伸20220625の小言

普通の人が普通に出来る普通の仕事が普通にしないと普通にならない。そんな発想が無いから生活と仕事が成立しない。

だから障害者が普通に仕事する意味があるように思う。私はそれだけのために生きている気はする。

普通に出来無いなんて論外である。障害者でも普通にやっているのだから普通にやるべきである。

それを定まらないとしたら高い目標が無いのかもしれない。だけどそれについて私には求められていない。

それがそのまま私の給料だからである。何にも期待されていない。ただあるのは障害者として普通にする事である。


来週もよろしく。

<<追伸20220625の小言end

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