今日は昼間一時間歩いて
それ以外は自分の部屋にいた。
音楽聞きながら
短歌と俳句やドイツ語やってた。
今日の残りは英語とフランス語である。
何か疲れたから明日になるかもしれない。
明日はおじいちゃんの法事である。
何か母とおじいちゃんが天国にいるなら
私もあっちにいってみたくなる。
何かそういう意味では世の中に疲れた。
経験が経験を呼び
情報が情報を呼び
観察が観察を呼ぶ
それを達人の極意とする。
批判なんて誰でも出来る。
メチャクチャにしようと思えば誰でも出来る。
それをしないから世の中が保たれている。
そういう認識にたって努力しなきゃあ努力は実らない。
なのに私の環境はそういう環境じゃあない。
努力できないからそれが許されるレベルじゃあない。
私にも出来る事があるんだからそのヒントで努力できるレベルである。
なのにメチャクチャなのは私の問題ではなくて他人の問題である。
そういう認識が足らな過ぎる。
やっぱりここでしっかり歯止めをかけないと
メチャクチャである。
そういう自覚があって世の中が保たれると思う。
そのメチャクチャは自分がなんとかなろうとしているだけで
努力になっていないのが原因である。
学校の先生が悪い。努力ぐらい指導すべきである。
そういう努力をとっても話が成立しない。
努力が無い証拠である。
なんで私の努力がここまで実るのはやっぱり火事場のくそ力と
何でもやってきた経験だと思う。
失敗もたくさんある。
例えばブラインドタッチで教養の情報処理の単位もとれなかった。
「私とは何か」という哲学の講座も何回か受けて止めた。
それでもカバーできたのはひとえに努力だろうと思う。
大学生時でパソコン買って日記つけたり
今のホームページで私とは何かという事で書き込んだり
ほとんど私の事だからあんまり間違いが無いというのもあるかもしれない。
もう他人の事ああだこうだというより
自分の事を題材に考えたらどうだろう?
それが私が悩まなくて済む方法だと思う。
それが賢く生きる方法のように思う。
そうして世の中はメチャクチャにならず努力できる世の中が保たれる。
なのに他人の話をするのは問題な気がする。
それが問題の発端だと私は思う。
<<追記20170311end
大体自分の話もしないで
返信削除他人の話ばかりするのは要注意である。
中身の無い話でしか無い。
『私とは何か』とはそういう事を含んでいる。
哲学のテーマだから中身のある話なんだろうと思う。
私も良くここまでやったと思う。
多分未来もチャレンジすべきテーマな気がする。
現在も大切な事だと思う。
自分の事でさえ不可解なのに
なんで、他人の事までわかるのか
私には問題がややこしくなる原因だと思う。
もっと自分を見つめて努力した方がいい。
それが率直な気持ちである。
努力も出来なくなったら
終わりである。
それがどうやったら努力できるのか?
私なりに書き込んできた。
あとは野となり山となりである。
他人の話より
自分がどう努力するのかが大事である。
他人のためにやっても
他人のためになっていないのが
世の中である。
なのにどうして他人が出てくるのか
私にはもっと他人のためになる方法は
自分の事がちゃんと出来無いのに
どうして他人のためにしてやれるのか
私には理解出来無い。
そういったもろもろが
他人の話の混迷の原因である。
どうしようも無い人が他人の話するから悪い。もっとちゃんとした人が他人の話すべきである。
他人にとって迷惑である。
それが如実にあらわれてる。