2020年7月8日水曜日

近況

<<追記20200708
私には私の経験則があるわけでそれは幻想じゃあない気がする。
それが他人とってわからなくても私にはある実感があるわけでそれは確かなものと思う。
要するに分析と確認が大事である。私だけでも他人だけでも言えると思う。
それがわかるのかわからないのかは経験によると思う。
経験が無ければ永遠にわからない。それがこの世界だと思う。
だけど人間社会としては誰かにつないでもらう必要がある。
そういう活動が大事である。一人で突っ走ってもしょうがない。
だからこそ経験則は共有出来ると思う。それが民主主義の根幹のように思う。
それが出来るか出来無いかは本人の問題である。
それがグローバリゼーションとどういう関係があるのか私にはわからないけど
私は私として世界とつながっているように思う。
それが経験則は共有出来ると言っているのかもしれない。
それにしても他人の無理解には参る。世界が狭すぎる。そんな事は小中学校の時から感じてたけど
今もそれに直面するとは思っていなかった。私にはひたすらに無関係だと思ってた。
そんな事より世界につながっている。そうテレビで言っているような気が最近した。
他人なんてちっぽけな存在である。それより世界に視点を持てと言っている気がした。
そういう意味ではちっとも幻想じゃあ無い気がする。
世界には真実がある。それが世界につながる意味のある事のように思った。
今にして思えばもっと人材を有効活用出来るように思う。もっとチャンスを与えるべきだと思う。
開かれた自由と希望に満ちた社会にすべきである。それが出来るのも経験則だろうと思う。
そういう意味である経験則によって共有された秀吉タイプがいっぱい存在する事である。
それはバカとアホがどうにかなるより大事なことのように思う。
それが他人を相手にしたくない原因である。理解不能は理解不能のままで良い。
それより理解出来る経験則の方が大事である。
人間みな同じじゃあ無い。やればやるほど違ってくる。それを共有出来るのは経験則である。
それが出来無い他人が問題を起こしている。私にはひたすらに不可抗力である。
私に関わって欲しく無い。迷惑なだけである。そんな会話が成立しない。
そんな手前私には共同幻想が他人と共有出来無い。多分私の経験則が通じないからだと思う。
だから共同幻想自体が幻想である。無理な人は国家観からして共有出来無いというわけである。
それでも現実に直面するのは経験則のように思う。それが共同幻想に影響するように思う。
なので私の視点はひたすらにバカとアホには無くたくさんの秀吉タイプにある。
今週一回目の百分de名著と雑誌を昨日消化した。共同幻想は国家観だけで無い気はする。
それでも筋を通すのは哲学と仕事のように思う。
もっとどんな仕事が大事なのか考えた方が良い。それも無く共同幻想は成立しない。
それを正確に認識するのは経験則しかない。
しばらくテーマが見つかるまで書き込みを減らしたい。よろしく。
<<追記20200708end

<<追伸20200708の小言
ニーチェは神は死んだと言った。私の場合正義は存在しない。何か共通点があるように思う。
私の神は得体の知れない自然神である。全ては神様が知っていると思っている。
要するに私の知らない事を神様は知っている。そのために私の中に神様がいる。
私に正義が成立しないのは他人によって正義は様々だからである。
それをのりこえるのも神様次第である。なので私は正義について自然観察でしかない。
ひたすらに私は善処するだけで全ては神様次第である。
なので私は正義を吟味しようなんて気はさらさら無い。
だから人間社会に正義は存在しない。全ては神様が決めてくれると思っている。
だから私は私で善処するだけなのである。それが私に正義が無い理由である。
つまり私に正当性は存在しない。それがニーチェの神様が死んだのような気がする。
だけど私は全て神様が決めてくれると思っている。
それだから私には正義が不必要である。ひたすらに私は善処して全ては神が決めると思っている。
なので勝手に自然が決めると思っている。それが私の自然神である。
それでもどうにか平和に過ごしたい。それが本当の本音である。それなのに戦場にいる気分である。
今週もあと二日ボチボチやりたい。
<<追伸20200708の小言end

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