<<追記20200310
健康に良いことを考えるべきであって健康に悪い事を考える必要なし。
それなのに何で最低と比べる必要が無い。
何で一緒になって不健康にならなああかんのか理解不能である。
私は誰一人しいたげて生きていない。やる事やっているだけである。
なのに何で比較されて色々問題を引き受ける必要があるのかが理解不能である。
ひたすらにやる事やるだけである。
それだけのために最低と比べて何になるのかわからない。
私はこの歴史をやめたい。それが本音である。
もっと有効に時間を使った方が良い。無駄に無駄である。
何にもそんなことしてプラスになることは無い。
最低が生きづらくても私には関係が無い。やることはプラスにやるだけである。
それだけのために比較しても無駄である。
それなのに他人を奴隷にして平気な社会学も最悪である。
他人を犠牲に社会学が成立している。そんな社会だと私には思えないのに
私に対して犠牲をはらおうとしている。これのどこが人材の有効活用なのかわからない。
もっとやることやってたらそんな風にならない。
私にはひたすらにやることやるだけにしか思えない。
悪魔の社会学を私に適用して何になるのかがわからない。
それのどこが理想なのかがわからない。他人の不満が私にこんな形であらわれる。
この世のやることはやるだけである。
それだけのために何で最低と比較する必要があるのかがわからない。
もっと役に立つこと考える方がマシである。
最近はあんまりプログラムやっていない。
仏教や芸能の本ばかり読んでいる。考える事も多く疲れ気味である。
日蓮にすると法華経はだいぶあとから作られたから
色々な経典の問題を克服しているのが法華経のようである。
親鸞は自分を善じゃあ無く悪だと思ってたらしい。
悪でも浄土に行ける阿弥陀仏の本願が念仏らしい。
そうやって浄土に行ってまたこの世に戻ってくることを考えてたらしい。
それが浄土の救済らしい。そうやってみんなが救われることを考えたらしい。
だけど法華経はみんな平等に悟れると言っているようだから
それも一つの浄土の形かなと思う。何となく他力本願というよりは
菩薩行だけど生まれ変わるうちに悟りの精進を重ねて
法華経の世界を作るということのように思う。
それが釈迦のやったことのようである。
そんなことが何で他人をしいたげて平気になるのか私には理解不能である。
私はこの世のやることはやるだけだと思っている。
やるかやらないかぐらいしかない。
明日も仕事である。ボチボチやりたい。
<<追記20200310end
<<追伸20200310の小言
禅も道元の弟子が書いた本を少しだけ読んでいる。お茶も道教と禅が関係している。
そのため少し道教の本も読んでいる。健康が仏道なんだと思ったのは禅とお茶である。
健康になるのが一番だよなと思う。
そのために私には何が出来るのか考えている。
何も不健康のために生きること無いよなと思う。
他人が不健康にさせているのは仏道に反する。そういう意味でプラスになっていない。
もっと健康に生きることを考えた方が仏道である。
そういう意味でやるかやらないかぐらいしかない。
それなのに他人を征服する事が主眼なんてナンセンスである。
そんなんよりやることやっている方がマシである。
<<追伸20200310の小言end
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