<<追記20170202
2017/1/30日母方のおじいさんが亡くなった。
昨日通夜があって
今日は葬式があった。
母のところへ行ってしまった。
家に帰って仏壇にてご報告した。
母が亡くなって五年数ヶ月おじいさんも間に合わなかった。
いつになったら間に合うのか疑問ではある。
半分呆れ果ててる。
そのぶんサバサバしている。
まあなるようになるやぐらいしかない。
天国で母とおじいさんが仲良くやってればいいかなとちょっと思った。
私なりにまだ役目があるのかもしれない。
そう思って春隣である。
その割にshellでトラブッタ事を思い出して
追記する事にした。
出版社が私に出版の依頼があってもいいのにと思うが
今ところそう言った事は無い。
面白い本が書けそうではあるがそう言った構想は存在しないみたいである。
私も電子書籍にしようかなあとか考えるが
ホームページでいいような気がして
英語の本を出そうかなあとか考えるが
翻訳家の仕事の方がいい気もして
私の時間を考えるとそんな事やっている時間が無い。
結局集団にはかなわない。
そういう集団に遭遇してない。
ボチボチやりたい。
<<追記20170202end
shellで思い出したことを追記した。
https://sites.google.com/site/skillprogress/shellsukuriputoyabatfairu
一日たって仕事した。
返信削除あんまりガツガツしてもしょうがない。
むなしいだけである。
そんな暇があったら
やりたいことをやってたい。
その方が近道である。
なにも遠回りする事無い。
それが他人にとって
遠回りと近道が逆になってる気もする。
なのであんまり
振り回されたく無い気がする。
結局色んな事含めて信用問題である。
信用されなければありえない。
女もしかり男もしかりである。
信用される努力とは何か
日々問われてる。
生活全体の取組そのものが問題である。
常日頃からヒントはいっぱいある。
それをないがしろにして
問題は解決しない。
それなのにないがしろにしている。
ただ黙っているだけである。
工夫一つで信用されうると
言いたいのである。
それが生活一つでもヒントはある。
それを見ずして未来は見えてこない。
信用出来無くて
信用する事は無い。
それが私の実態であり
信用する人がいないというだけである。
それなのにそんな話をするのは
やっぱり信用出来無い。
お互い信用ありきである。
つまらない生活が信用されるのか
工夫のある生活が信用されるのか
楽しい生活が信用されるのか
貯金のある生活が信用されるのか
私の価値観だと
面白い人生は頭の使いようである。
ヒントはそこらじゅうにある。
なので興味本位である。
なにもそこから放棄することはない。
そうそこらじゅうにヒントがあるのである。
そうやって少しずつ違ってくると
大きく違ってくる。
信用するかしないかは
本人次第である。