2017年6月12日月曜日

雑記20170612

<<追記20170612
機会の平等は法律にあるけど
例えば労働権とかもそうだけど
なんか現状は開かれていない。
なんかほとんど競争する前に差がついている。
同じもの与えられて競争していない。

それはそれで私の責任では無い。

私のストレスは機会どころか
全ての平等のために私がしいたげられている正義である。
そんな世の中でも無いのに
全て同じようにしようとする正義とのたたかいである。
どこにそんな正義のために私が苦労する必要があるのか理解できない。
だったら
せめて機会の平等ぐらい担保するべきである。
だけど世の中はそうじゃあ無いのに
私は行き過ぎた平等のためにストレスを感じている。
何のために競争しているのか
わかっていない。
全国民が同じように生活出来ない権威のために
競争しているのである。
努力して成功したものだけが得れる特権のために
競争しているのである。
その競争に勝ったものが全国民のためになるそういう特権や権威である。
努力しもしない人が必要の無い特権や権威のために
競争しているのである。

なのに機会の平等も無いまま
私だけがナンセンスな全ての平等のためにストレスを感じている。

結局みんな自分勝手に生きているだけである。
何のために競争しているのか
何のために機会の平等があるのか全然理解していない。
なのに私のストレスはナンセンスである。
私の責任では無い。
それが全て私に迷惑を受けている。
私に不満を言うのではなく政府に不満を言うべきである。

例外もなく私も競争してきたのである。
それなのに今の現状は犯罪である。
そんな全て平等の正義なんて絶対最後に正義は勝た無い。

なぜなら
それは私が身をもって私は競争してきたからである。
今の世は競争ありきである。
それが嫌だから私が嫌いと言われても
私が悪いからでは無い。
その結論は私に対する犯罪である。
そんなことに私の責任は無い。
それなのに全て平等なんて正義こそが犯罪である。または
憲法が違憲かどっちかである。
そんな判断を私がする気無い。
私には全く責任は無い。
<<追記20170612end



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