<<追記20201205
今週下記の本を買った。
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図解 葉隠―勤め人としての心意気
齋藤孝
葉隠 (知的生きかた文庫)
奈良本 辰也
男性論 ECCE HOMO
ヤマザキマリ
望遠ニッポン見聞録 (幻冬舎文庫)
ヤマザキマリ
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そんで死に物狂いに仕事しろと言われてそんなもののように思った。
そうでもしないと仕事出来ない気がした。
死んでも良いぐらいで仕事する覚悟があれば仕事に耐えれる気もする。
そんな覚悟が私には無かったのが仕事を敬遠している理由だったかもしれない。
死にに行っている気があれば継続するような気がしている。人間不思議なものである。
男性論は私自身あんまり自信が無いためである。
女性目線でどんな風に見えるのか扱っているのは偉人だけど
私自身は不安定である。もっとしっかりしたいけど出来ない。それが私の本音である。
何となく人間として私自身は壊れている気がする。
それぐらい自信が無い。ただあるのは素敵な気持ちになりたいぐらいである。
それだけで生きている。
日本が普通ってわけでないらしいという話につられて日本論を読みたくなったりもした。
色んな人の意見を聞けるのが読書の良い点かなと思う。
どんな意見を聞きたいか他人ももちろんそういう視点は存在していると思う。
今日の土曜はプログラムと最近の気になる本を中心に読書しようかと計画している。
日曜は外国語をやる。そろそろ冬の大掃除と年賀状がある。
一年は早いものである。あんまりゆっくりとした時間が無い気がする。
結局年末と正月ぐらいかなと思う。それぐらいやる事が多過ぎる気がする。
お金も含めてそれが一人暮らしの難点かなと思う。
今年一年良くやったかなと思う。ほめて良いと思う。それぐらい今までの集大成だった。
これからはもっと未来志向で考える必要がある気がする。
未来のために何が出来るかそれが大事のように思う。
今までの事が未来につながるのだけど未来のために今やる事を見直したい気がする。
現状は改善が難しいのだけど今までで良い気がしない。もっと未来の視点が必要のように思う。
来週も書き込みは金曜と土曜にしたい。段々板についてきた。毎日考える余裕も出てきた。ボチボチやりたい。
<<追記20201205end
<<追伸20201205の小言
歴史と経済と政治と宗教と物理とプログラムと外国語の本が最近の関心事である。
それに漫画の本も助けを借りている。それが出来るのも私に時間があるからだろうと思う。
それぐらい私にはフルタイムは荷が重い。それを投げ出して仕事したいものがあるのか関心事ではある。
大事なのは未来が明るくなる事だろうと思う。そのために仕事するなら私は納得する。
つまらない世の中のために生きる気はしない。そんな面白さが大事である。
なので基本的に私はバカには期待していない。そんな事より面白い方が大事である。
それが神様が作った自然だと思う。そんな面白さが無いのがバカである。
どうしたって神様の方が上回る。それが自然の摂理だと思う。なので私は基本的に神様には抵抗しない。
それが誰もえらくない理由である。それが私の事実上の民主主義である。
全ては神様が決めると思っている。それが私の戦略である。だから全ては自然のままである。
そのために自然を知る必要がある。それが自然科学である。
それぐらい自然は偉大である。そんな面白さがわからない人が女も男も問題を起こしている。
それぐらいつまらないコンテンツばかりである。話さえ通じない。
最近気になるのはフェルマーの原理である。光が最短経路をとるというものである。
もっと相互作用で光は最短経路をとっているのではないかと思ったりする。
そこら辺が統一場理論や超相対論で解決するのかわからないけどもしかしたら
最小単位の超弦理論まで行きつくかもしれない。それぐらいフェルマーの原理は眉唾物である。
そう考えれば納得するだけで何の物理にもなっていない気がする。それが最近の物理の気持ちである。
<<追伸20201205の小言end
<<追伸20201205take2の小言
自由とは自分の束縛された状況にもっと良くなる方に自由になる事である。それが人間の発想方法である。
平等とは権力ではない。自然に存在するありふれた権利である。
なのに他人は権力をふりかざし自由によって他人や社会に悪影響を与える。そんなのは人間社会にとって最悪である。
今現在の束縛された権力闘争にどうやって良いように自由になれるのか考えるのは人間にとって大事な要素である。
なのでエラくなることで解決しない。もっと自然にありふれた権利としてもっと良くなる自由を求める事である。
それが自由と平等と博愛である。
<<追伸20201205take2の小言end
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追記
<<追伸20201205take3の小言
親子に大事なのは子供が納得するまで対話する事である。
それを親子以外にも実践させる事である。
そんなキャッチボールが誰でも出来るのが大事である。
自分で何とかするところもありつつお互い情報も必要である。
親は親で情報があり子供は子供で情報がある。生きるとは他人との意見交換である。
それが親子にも求められるだろうと思う。私の塾生活のようなものはいらないかもしれない。
それぐらい私は私でやり尽くしてしまった。大体何が必要かわかってしまった。
大体社会は習い事で差がついている。決して親子のディスタンスじゃあないと私は思う。
他人の時間を借りるお金で差がついているだけだろうと思う。
それが私の場合塾だったのような気がする。それが勉強か音楽かお茶かお花か絵画か書道かスポーツか芸能とかみたいな気がする。
それぐらい習い事の他人の時間にお金をかけているだけだと思う。
それと色んな他人を知る事は大事である。それだけで他人と差がついている。
教育の機会均等にほど遠い。それを学校の先生も無視している。なので私も先生なんかアテにならなかった。
だから私は先生を信じる気になれなかった。それが小中高時代だった。
それぐらい自分で何とかするしかなかった。子供とはそういった面もあるように思う。
親の情報もありつつ子供は子供で自分でどうにかするしかない。それが現実だろうと思う。
それは親も同じであり親は親でどうにかするしかない。それが社会だという事だろうと思う。
そうやって相互に努力するしか家庭は形成出来ない。それが私の思う家庭である。
<<追伸20201205take3の小言end
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追記
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