<<追記20201226
学校の弊害を感じて文章を書いたら冷戦が終わった。学校に理想と現実が乖離していた。
もっと着実な学校教育じゃあなかった。その現実を文章にしたら共産主義の終焉になってしまった。
そんなこんなで大学を出て逆に私が人生の理想を掲げてしまった。
学校教育の弊害から人生の理想を掲げてしまった。今となっては共産主義が成立するのか私にはわからなくなってしまった。
そういう学校の矛盾をはらんだ私の人生だった。
そんな意味で理想と現実の狭間で学校教育に私自身は悩んだ。悩みの無い人生じゃあなかった。
そんな手前理想はコワイと思う。もっと現実に反映する理想を持つべきである。
現実に反する理想は人災である。それなのにバカは私を見る目が無い。
バカの目線で考えているだけである。もっと違う世界があるのにそれを知らない。
なのでバカの理想なんて人災である。それがわからないのが共産主義のように思う。
もっと現実に反映される理想を求めるべきである。それが物理の理論でもあるけど
どうして私がウソつきなのかが皆目見当がつかない。
私は間違った事をするかもしれないけどそれをカバーするように生活と仕事をしている。
それが出来無いのはバカだけである。私が最善を目指すようにバカにはそれが出来無い。
要するに私には手が付けられない。もっと完璧に生活と仕事しないと私の言う事は理解出来無い。
それぐらいバンカーショットみたいなことをしていると思う。
それぐらいへこたれない精神が欠けている。耐久性ゼロである。
それで物事が私と同じになるように思えない。ここまで来ると住む世界が違うしかない。
これのどこが日本人がディープじゃあ無くてアメリカ人がディープなのかが私には理解不能である。
そういった矛盾の中で私は悩んできたのである。それがこの日本で日本人として成立している。
それに悩まないのが東大医学部なのだろうと思う。至る所に矛盾があるのにそれに気づかない。
要するに現実と理想が見えていない。そこに接点を持つのが学問なのである。
そんな格闘が哲学として成立していない。私がここまで言えるのは多分私が賢いからだろうと思う。
所詮テストなんてそんなものなのである。もっと現実と理想に悩むべきである。
そんな格闘も無くスルーしている。それがテストの弊害である。
私は小学校の頃から先生に反発してきた。それぐらい小学校から矛盾があった。
だから私は小中高の先生が嫌いである。それを理解出来無い東大医学部なのである。
もっと現実と理想がうまくいくように哲学的に格闘しないといつまでもノーベル賞は難しいと思う。
それが私の感じる提言である。バカもバカだけど秀才も秀才である。
結局同じ視野で止まっている。もっと理想と現実を直視すべきである。
要するにバカも秀才も悩みが足らない。もっと違う世界が存在しているという現実だけが残っている。
これを述べる日本人がディープじゃあ無くてアメリカ人がディープなのも理解不能である。
学校教育自体が矛盾なのにそれに気づいていないバカと秀才が存在している。
それを指摘する日本人がいる。まさに日本人はディープである。それに格闘しないバカと秀才なのである。
それに解放されたくて昔から私は格闘してきた。未だにバカと秀才の問題は存在するらしい。
私としてはただひたすらに無関係でいたい。それが私の本音である。
結局バカも秀才も人の見る目が無い。どんな世界にいるかも知らない。
それが私の知る学校教育である。私の知る共産主義は理想しかない。現実とは無関係である。
だから私の事実さえ現実問題として無視しようとする。そんなの理論として存在しない。
結局そんな他人についていけない。それが私の感じる他人である。
そんなディープな日本人が存在する。まるで宇宙人のようである。せめて人を見る目ぐらいどうにかして欲しい。
そんなこんなで他人と私に論理の接点が成立していない。ただ時間が過ぎて無駄なだけである。
結局どうしようもないねえぐらいしかない。それぐらい現実と理想が違いすぎる。それが他人の矛盾だらけの原因である。
<<追記20201226end
<<追伸20201226の小言
そんな他人の事考える暇があったら他の事考えたい。それが毎日感じる他人である。
今週はあんまり本を読まなかった。かわりに雑誌の来年の予測を読んでいた。
コロナの影響で不確定要素が大きいように思う。なんか展開の読めぬ気配が感じる。
冬休みは読書がメインになりそうである。その前に整理整頓と掃除と庭の手入れしたいなあと思う。
私が困っている他人がいるとしたら文章を書く事をおススメしたい。
それが財産となるような文章を書いて欲しい。
それが最も成功する確率の高い方法だと思う。どうやって文章を財産に出来るか考えれば良いと思う。
そんな活動が出来れば成功だと私は思う。
来週も書き込みは金土にしたい。新年になる。ボチボチやりたい。
<<追伸20201226の小言end
<<追伸20201227の小言take2
公人がやせ我慢してきれいごと言うのもそれはウソを言えということ?
何かそれも現実と理想が乖離していると思う。
それでは自由民主主義にならないと思う。もっと公人がうまく言えるように現実と理想を考える必要がある。
やせ我慢してきれいごと言うのは現状がうまくいっていない証拠である。
もっと公人が公人らしくふるまえるように哲学が必要に思う。
無理が無理になっているのがやせ我慢してきれいごとを言う原因のように思う。
それでは一向に自由民主主義にならない。無理な方に政治が進んでいるだけのように聞こえる。
もっとどうすれば公人らしくふるまえるか公人だけの問題じゃあないと思う。
そこら辺を哲学的に格闘しないと自由民主主義にならないと思う。
<<追伸20201227の小言take2end
<<追伸20201227の小言take3
安倍元首相自体一国の総理大臣としてはあまり良い生き様じゃあない気はする。
あと私が感じるのは元総理が今後それでもまっとうに生きられる日本であるぐらいである。
それぐらい国民として参考になる総理大臣として真面目に生きられば間違ってても生きられるぐらいしかない。
そんな意味で安倍元首相も私の中で終わっている。
それにしても尊敬出来る政治家って難しいのかと思ったりする。
尊敬する人間自体が難しいのか私には判然としない。
それぐらいまことに真面目に生きるとは難しいのかエリートもピリッとしないなと思う。
学歴と職歴のツケがこの三十年の重みになっている気がする。
この三十年が否定されない限り私は日の目を見ないだろうと思う。
それぐらい追い詰められている気がする。私にあるのはもっと真面目に生きられるぐらいしかない。
その私を上まわるぐらいじゃあないと今後の政治も難しい気がする。
今の私が感じるのは他人が生きられるのだから自分も生きられるはずという感覚である。
そういう感覚が無くなるのが最も恐ろしいことだと思う。
だから安倍元首相の今後も私にとって同類項である。そうやって安全パイが生まれると思う。
そうやって日本国民が吸収して生存していくのが私の理想である。
なのであんまり安倍元首相をこきおろすより終わっている感が私の第一感である。
それで本人がまた総理大臣する気なら別問題ではある。それでも生き様としたらありえない気がする。
もっと総理大臣として生き様を示す覚悟もなくて総理大臣がつとまらない気がする。
そんな尊敬出来る生き様の総理大臣が私の理想である。
菅総理もコロナ対策で国難を回避出来れば未来は明るいけどそれが一番の関心事かもしれない。
来年のオリンピックといい難しい舵取りだなとは思う。
ともかく来年は色んな策と分析が肝要だなとは思う。それはそれで政治家冥利に尽きる気はする。
それぐらい色んな情報を得られるかが勝負のように思う。
それぐらい色んなアンテナが必要だと思う。それが生き様として国民に伝われば支持率は上がるだろうと思う。
<<追伸20201227の小言take3end
<<追伸20201227の小言take4
自民党や菅総理の得票率が悪くてもその他の候補と政党はもっと悪いから
今の状態が決まっている。結局今の状態でどうにかするしかない。
投票しない人が自民党に入れなかったらという可能性はあるかもしれないけど
多分自民党しかないから投票しなかったように思う。
それぐらいだらしがない頼りにならない野党だという事だろう。
自民党に頼るしかないと日本国民はそう思っている気がする。
そもそも私はあんまり政党で決めない気もする。その人の意見で決める気がする。
それも本のランキングと同じであんまり人の意見じゃあない気はする。
なので民主主義もあやしいなあと私自身はそう思う。
それでも自民党しかないというのが国民感情のように思う。
それぐらい自民党と菅総理よりもっと他候補と他党が得票率が悪いだけのように思う。
<<追伸20201227の小言take4end
<<追伸20201228の小言take5
何のためにいきるかなんて自分が常日頃から考えていないと解決しない。
そんなに簡単に解決しない。もうちょっと長い目で考えないと無理である。
中年になって若いようにはいかない。そのため計画性も問われる気がする。
結局出来る事をするぐらいしかない。それが自分の場合何なのか人それぞれだと思う。
誰かと同じようにはいかない。それが中年だと思う。
それを他人に考えてもらうなんてありえないと思う。自分で考えないと思いつかない。それぐらい難問だと思う。
それなのに未だに小学生のままなんてありえない。もっと考える事は他にイッパイあるだろうと思う。
なのでなんで私は小学校の時のように束縛される必要があるのかが理解不能である。
私にあるのは自由になりたい。ただそれだけである。狭い世界なんてどうでも良い。それが本音である。
そんな小学校の頃から矛盾だらけなのである。なのに東大医学部はラクで良いなと思う。
それぐらい悩みとストレスが無さ過ぎである。それがテストの弊害である。
もっと自分が開放されたくて哲学的に格闘するぐらいじゃあないとノーベル賞は無理である。
それが私の人生論である。それぐらいウンザリでありストレスであり悩ましい問題である。
そんな世界に矛盾を感じ無いのが東大医学部と社会学の人だろうと私は思っている。
私はそれに遠ざかりたい。それが私の本音である。
<<追伸20201228の小言take5end
<<追伸20201228の小言take6
多分オリンピックにこだわるのは経済的効果だろうと思う。
それぐらいリターンがないと危ないのか危なくないのか私は試算出来ないけど
結構なお金が動くから東京の経済は良いとこちらの静岡では聞いている。
むしろオリンピックが終わったら東京はどうなるだろうとか心配しているぐらいである。
それぐらい費用対効果があるのを当て込んでいると私は思う。
つまり費用対効果でオリンピックをやめられない気がする。
そんなにお金の計算はシビアということだろうと思う。むしろ日本は財政的に大丈夫なのか心配した方が良さそうである。
それぐらい東京はオリンピック景気らしい。それなのにやめれるか私には試算出来ない。
結構赤字がふくらむ気がするだけで話をしている。それぐらい日本は心配である。
<<追伸20201228の小言take6end
<<追伸20201229の小言take7
もっと今まで自分の人生に可能性のある生き方してたら「何のために生きれば良いか」なんて言わなくて済む。
結局今までがアマノジャクだったってだけである。それぐらい努力が足らない証拠である。
それを私に求めるのは間違っている。もっと自分でどうにかすべきである。
私にはバカだから許されるという根拠がわからない。そういう意味で平等じゃあない。そんなのバカの特権階級である。
えこひいきにしか聞こえない。それを許す小学校も小学校である。そんな小学校の矛盾がたまらない。
なので私は一切無関係でいたい。それが私の経験上の感覚である。
可能性ある生き方してたって失敗するかもしれないし成功するかもしれないし不安定である。
常日頃からどうすれば良いか悩まないと解決しない。
なのにバカだから許される視野は存在しない。それぐらい真剣に悩まないと生命の肯定につながらない。
それなのに他人に迷惑を与える根性はどこからバカとして生まれるのか私には信じられない。
それぐらい誰にも出来ない事をやるとは真剣に悩まないと結果はついてこない。
なのでバカの特権階級が横行する余地が無い。それぐらい誰にも出来ない事をするとは誰も悩まない事を悩む事である。
それがバカにはいつまでもわからない。結局バカも悩みが足らないという現実しかない。
それは東大医学部のノーベル賞も同じである。あまりに社会の矛盾に関心が無さ過ぎである。
ちゃんと悩んでたら解決するのである。それに逃げているからバカも東大医学部もうまくいかない。
それぐらい誰も悩まない事に悩む意義があると私は思う。それが「何のために生きるか」にこたえる方法のように思う。
それぐらい真剣に生きないと生命の肯定感は難しいと私は思う。
<<追記追伸20201229の小言take7end
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