2017年2月28日火曜日

雑記20170228

<<追記20170228
今日は散髪して帰った。
大学院修士時代は
ビッグバン元素合成が研究内容で
古典力学中心だった。
観測データも論文収集内容だった。
なので量子論のデータは私は見た事が無い。
量子論のくりこみも私は知らない。
ただ摂動論は大学の卒業論文に含まれていた。
そういう手前
あんまり量子論にさかのぼる自信は無い。
大学時の参考書とか他にも参考書があるので
勉強は出来るけど
そこで私が何が出来るかというと未知数である。

私としては量子論のくりこみが
相対論でカバー出来るのか出来ないのかが気になる。

それなりになんだかんだと
国家百年の計になっていると思う。
日本の作戦本部長としては満足出来る気がする。
それも色々な歴史のおかげである。
それを忘れてはいけないと思っている。

あと私は何のお役に立てれるかが私の気になる所である。
ぼちぼちやりたい。
<<追記20170228end

2017年2月27日月曜日

雑記20170227

<<追記20170227
最近のまわりの話だと物理学で医学に寄与しない話になっている。
加速器は費用が高すぎて
服薬でなおさなければいけないとかである。
私としてはそうですかしか言えない。
量子力学と化学で薬の創薬にはつながっている話は聞く。

相対論と言えば古典力学である。
量子力学は現代力学である。
この両輪がどのような未来を作り上げるか
ピンとこない。
デカルトのように私は私で分割された専門領域にチャレンジしたが
それがどのように医学まで寄与するのかピンとこない。
普遍性に対して相対論まで駆け上ったが
まだまだ駆け上る必要があって
そのあとに駈け下る必要がある。

とてつもないドラマがある気がする。

力学が統一されたら
なんか色々やれそうである気にはなるが
他領域でもいろんな副産物が出て来る可能性はある。
チャンスと言えばチャンスである。
そういう不思議なものと付き合っていると発想も浮かぶかもしれない。
その領域が大き過ぎて私にはピンとこない。
そういう風になったのも科学という普遍性のおかげである。

なので私としては新しい現象がわかったら普遍性を問うべきである。
それが新しい未来を作る。
それが私の人生を如実にあらわれていると思う。
それも科学の歴史のおかげであり
数学の歴史のおかげであり
哲学のおかげである。

ここまできたら語りつくすのは難しい。
そういう未来が待っている気がする。
普遍性のおかげである。
<<追記20170227end


2017年2月26日日曜日

修善寺駅からJRさわやかウォーキング

<<追記20170226
今日は梅園が目当てだった。
ウォーキング後
湯の国会館で風呂に入った。
サウナに二回冷水に二回
温泉に何度か入り直した。
薬草のお風呂も何度か入った。
今年の二月もそろそろ終わりそうである。
家に帰って
短歌と俳句を作った。
時を重ねて外国語が出来ればいいなあと思う。
最終的に言語で落ち着く気がする。
そこが終着駅のように思う。
ただそれだけのために生きれる気がする。
外国に道は開かれてるただそれだけである。
日本でちまちまやっても仕方ない。
あきれを通り越してため息である。
外に解放を求める。極めて正常である。
アメリカもそういう道を求めているのかもしれない。
アメリカの外って何なんだろう。
宇宙かしら。気分は外に向かっていく。
そう思って今日はさわやかウォーキングで歩けた気がする。
私もボチボチやりたい。
<<追記20170226end



2017年2月25日土曜日

近況20170225

<<追記20170225
今日は東京に行ってきた。
新宿まで行ってプラモデル見て
京王百貨店でワイシャツ買った。
そこのトンカツ屋で昼食後
十条と北千住と東京駅で買物した。
北千住のドンレミーアウトレットのココグラン北千住店でchoice!レアチーズを帰宅後食べた。
夕食は十条で唐揚げとカキフライと野菜を買った。
東京駅では五目おこあを買った。
ちょっと量が多いので
残るけど結構おいしそうに見えた。
なんか少し元気になったような気もする。
あんまり何度も行けないけど
たまにはいいかもしれない。
気分転換にはなったように思う。

家に帰って短歌と俳句を作った。
今日もゆっくり寝れそうである。
ボチボチやりたい。
<<追記20170225end

2017年2月23日木曜日

雑記20170223

<<追記20170223
大学浪人を一年した。その時の幻聴で
積み上げた精神構造が崩れた。
多分それぐらい複雑だったんだと思う。
それから二十年近く今まで比較的短絡的に生きている。

小学生の時は良く遊んだ。
小六にもなっても勉強のしない五百住小学校であって
総合学習の課題に耐えれなく塾もやめてしまった。
それでやる事といえば遊びだった。
あんまり国語が良くなかったので本は読んでたぐらいである。

中学時代は体がだるく
体力が弱ってた。受験勉強で頭がさえた。
頭使うって健康だなと思った。

高校時代は中学時代を繰り返したくなかったので
父親の本棚から読書を良くしていた。
健康ではあったが受験はおもわしくなかった。
それを乗り越える知識が私の努力だった。

理想と現実に悩んだ。
努力とはなんぞやという漠然とした疑問があった。
周りは理想を掲げるが努力が足りない気がした。
理想に囲まれて桃源郷には程遠いものだった。
大学や大学院に入っても競争である。
税金使っているから仕方ない。
それにしても中三の担任の先生も税金には覚悟がなかった。
バブルの時だったからかもしれない。
高校たくさん作っても税金がかかる。
そういう厳しい現実の中勝ち取っていかなければいけない。

そんな感じで学生を終え十七年間の今
色々工夫して今がある。
それはその時々に工夫を覚えて経験になっているのが大きい。
いろんな壁を乗り越えた気はする。
いわゆるブレークスルーってやつである。
そんな工夫とともに今がある。

私なりに大事だと思うのは
その時々で周りを観察しとりあえずやってみるという事だろうと思う。
そしてその時無理でも将来やってみようと思えるように
頭で作戦する事である。
結構考えたら少ない努力でものに出来る場合がある。
それがたくさんの経験になったら
あとは自然に結果に結びついていく。
それが私の素直な感想であり
その時に出来なくても出来るようにしたいと思えることが大事である。
それがわかってくれないから
ズルズル時間が過ぎる。
結果が出たらまた次の結果を考えたらいい。
そのために過去がある。
考える事は山のようにある。
なのにそれを避けるから失敗が連続するのである。
どうしたら次ぎにつなげれるかちゃんと考える事である。

そういう努力をすればランダムな結果にはならない。
それが正直な私の気持ちである。
今日はカエルと対話して帰宅した。
カエルは何を言いたかったんだろう?

今日は少し自分の作戦の工夫と精神構造の話をしたくなった。
素直によって耐久性があるという事と
ポテンシャルエネルギーを下げて少ない努力でできるように考えるについて
少し語りたくなった。
水泳もそうである。少ない力で泳げれば速くなる。
少ない力を大きな力に置き換えればいいからである。
それが私の感覚である。
<<追記20170223end


2017年2月21日火曜日

雑記20170221

<<追記20170221
なんかネタも無いぐらい書き込んで
しばらく休止しようかとまた考えた。
私もよくやっている気はする。
ここまで書けばあんまり未来も困る事無い気もするぐらいに書いた。

最近はまた英語も含めて外国語の単語覚えたり
英会話のヒアリングしたり
会社関係の法律やら会計やらマネージメントやら読んだり
LISPやJavaScriptなどのプログラムの本読んだり
敬語とかビジネス文書の本読んだり
科学の歴史の本読んだり
計算の本読んだり
というのが電車の中でやったりしている。
自分の部屋でやったりもするが
なんかつまらなくなったらやっている。

他には短歌や俳句とか奥の細道の写生とか
時代は良くなっている。
便利になっている。
チョコチョコっとでここまでやれる時代になっている。
十年前の昔とは格段に違う時代である。
それなのに消費が進まないのが不思議なくらいである。

なので今年はひたすらに消化するようにしようと思っている。
まだまだ時間がいる。
時間が必要なのである。
しばらく書き込みを停止して頭の整理して
ボチボチやりたい。
<<追記20170221end


2017年2月20日月曜日

雑記20170220

<<追記20170220
今日は昼間少し妖艶な話をした。
私は名古屋港で夜中車がずらっと等間隔で車が止まってた話をした。
なんか思い出した。

もっと正義をとなえるなら
全員を対象に正義をとなえるべきである。
一部のために正義をとなえるべきでない。
全員の民主主義のために自由をとなえるべきである。
それが出来ないから失敗する。
部外者はえらい迷惑なのである。

そんなことが出来る人でもないのに
それがやめられない。

絶対頼る人を間違っている。
多分そんな事をやろうとする人がいないからやっているだけである。

私に正義があるとしたら
どういうのが努力なのかせまろうとした自分がいるという事だろうと思う。
誰一人努力というものを理解していない小中学校で
私は努力とはどういうものか悩んだ。
そのために高校と大学と大学院に進学した。
他にも理由があるけど努力のために進学したのは大きな要素である。
そして大学で私は物理の問題を解決できるとは限らないと思った。
そして大学を出た。
西暦2000年だった。
そういう私なりの正義も受け入れられないから
組織が成立しないのだと思う。
いくらやっても無駄である。
部外者はいくらでも挑戦しているはずである。
そういう部外者の正義がたくさんあって
自分達の正義がほとんど無い状態で
それをどうやって解決するつもりなのか理解出来ない。
結局一部分の人達を守るためだけに生きているだけである。
全員の民主主義の自由のために生きるべきであって
一部分でやってたらいつまでたっても正解にならない。
部外者はそれに格段に賢い。
部外者のやることは民主主義と自由を全員に適用する事である。
そのためのルールや考え方に反したら
永遠に解決しない。

結局自分だけ正義だと思ってたら解決しない。
そして他人が正義を果たせると思えない以上
もうどうしようもない。
テリトリー外である。

私は他人が正義が果たせるように私は活動したい。
それが一部分のための正義なら
絶対不可能である。

あんまり正義なんて言いたくない。
でも努力してたら何かしらの正義にはなるわけで
そういう感覚もない人にどう説明しても理解してもらえない。
もう正義失格である。

そう名古屋港で車に近づけない困った私がいても
車の中は幸せに満ちてそれはそれで妥当だと思っている人がいるわけである。
それはそれでいいじゃん。
私はそういう人間である。

それがわかってくれないから私は困って今の状態を許している。
私も民主主義と自由を勝ち取りたい。
それが私の使命である。
私以外もそうである。
したがって全員民主主義と自由のためにたたかっているのである。
それはそれで健全だと思う。
それが日本国民の形だと思う。

それが一部分のために私は困っている。
そんな正義が成立するとは思えない。
もっと愛が必要である。
愛が足らない。
もうボロボロである。
そんなん救いようが無い。
それでいつまで続ける必要があるのか理解出来無い。
2000年から17年いくら何でも不毛な時間である。
本当に犯罪である。
<<追記20170220end