2018年1月31日水曜日

雑記20180131

<<追記20180131
今日も仕事した。
寒くて大変だが何事も一歩一歩である。
録画もようやく12月分に入った。
土日は落語を二本音楽を三本消化した。
今日もいつも通り過ごす予定である。
今夜は相棒がある。
あんまり録画の量に圧倒されてて消化出来なかったけれど
毎日一時間あまり消化すると終わりが見えてきた。
まだ二ヶ月分あるので油断は出来ないが
その他にも別の古い録画機にある録画もある。
まああんまり真剣になる気もしないので
チビチビいこうかと思っている。
とりあえず気長にやるつもりである。

最近はスマホで調べものする事が少々ある。
本読んでて思い出せず調べたりしている。
本で検索したり出来るけど
面倒なのでインターネットで検索したりしている。
新しい事はやっぱり慣れるまで時間がかかる。
それはそれで気長な状況である。
それでも楽しい感はあって続けたい気はしている。

気になる事は私が量子コンピュータを使う事があるのかというのが関心事である。
量子コンピュータのプログラムなんてやれば
量子力学が必要なのかというのが私の関心事である。
大学で何年間かやったけどそれが私にとって実学になるのか気になるところである。
波動関数がエルミート空間で無次元に規格直交化(次元が90度)出来る。
11次元以上に必要になるのか私には理解出来ないけど可能性はあるらしい。
私の生活では量子力学は必要ない。
それが私にとって量子力学が必要になるのか不思議な感じである。

それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20180131end

2018年1月30日火曜日

雑記20180130

<<追記20180130
今日も仕事した。
朝方少しスマホで調べものした。
なんか色々忘れやすくて
それでもなんとか思い出している。
抵抗の毎日である。
頭が真っ白でも思い出すキッカケがあれば何とかである。
そのうち忘れたままもある気はするが
あんまり確信みたいなのは無い。
それでも毎日続いているというのは問題が無いからだろうと思う。
問題があったら問題が発生する。
今の所そんな事がない。
それでも私に起こる事は変である。
そう認識している。
外部的要因を感じる。
それでも生きるしか方法がない。
それで抵抗みたいな気になっている。
そういう意味で全細胞が戦っている。
私はそういう認識でいる。
これを犯罪と言わずして何なのか私には理解不能である。
この世の悪魔と戦っている気分である。
それがこの日本の憲法というものなのかとあきらめ気分である。
それであんまり医者とか官僚とか政治家とか裁判官とか信じていない。
勝手にしやがれみたいな気分である。
そんなのに期待するより自分の可能性の方がまだマシみたいな気分でいる。

こんな私がやる事は本当は限られるのが普通なのが
逆境の哲学になっている。
ここまで来ると本当に神がいる気がする。
困れば困るほどなんかそんな気がする。
一体世の中はどれほど仕事する奴がいるのか理解不能である。
ちゃんと仕事した方がいい。
それが可能になっていないから私みたいなのがいる気がする。
そうやって私みたいなのが表に出るようじゃあ世の中末期的である。

それでも明日はやって来る。
ボチボチやりたい。
<<追記20180130end

2018年1月29日月曜日

雑記20180129

<<追記20180129
今日も仕事した。
夕食の買い物して帰った。
最近は寒い日が続く。
最近の関心は関数型言語と並列処理である。
そのためにCommon LISPとGo言語の本を読んでいる。
Swiftも少しずつ読んでいる。
昨日の休みの日は
ドイツ語とフランス語とUMLを少しやった。
メールもチェックした。
幻聴があるとつまらなくなってストレスがたまる。
それで面白い事をしたくなるのかもしれない。
私にとってゲームのように面白い気がする。

私にとって気になるのは大学ではみんな同じために勉強していないという事である。
それなのにそれが実現するのは至難の技である。
それが私にとっての現実である。
もうちょっと賢い奴が実現するのなら理解出来るけど
それが普通レベルで実現する気がしない。
普通レベルでやろうとすればするほどバカとかアホとかになると思う。
それがわかってくれないのが私が悪になる原因である。
なんで私が悪にならんとあかんのか理解不能である。
神様にでも文句言ってくれというような感じである。
そんな暇あったら読書している方がマシである。

女も意味不明である。女の気持ちがわかるだろうなんて不可能である。
もうちょっと冷静に会話できるようにした方がいい。
それが実現しないのに叫び続けて問題が解決するなんてラク過ぎる。

仕事しながら生活もしなああかん。
この両立も難儀である。
文明の力でも使わなあ実現するのは難しい。
インターネットに通販に車なんでも使いこなして一人で出来る気がする。
果たして私がそうなるのか良くわかっていない。

なんか不可能を極めるより可能を極める方がラクである。
なんで私が迷惑を受けている原因は不可能を極めているからである。
そんなんいつまでも不正解であり時間の無駄である。
そんなんより可能な事を極める方が短期的であり一直線である。
それを私がどうしろというのか私には理解不能である。
もうちょっと現実の世界を良く観察した方がいい気がする。
全く私には無関係なだけである。
それなのに未だに続いている。
無駄のオンパレードである。

それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20180129end

2018年1月28日日曜日

伊豆長岡駅からJRさわやかウォーキング

<<追記20180128
今日は伊豆長岡駅から三津シーパラダイスまでだった。
くもってて富士山は見えなかった。
伊豆長岡駅でえびせん買って帰った。
適度に疲れた気はする。
元気があればまあいっかみたいな感じである。

今週は休みの日が今日だけで
あんまり調子がつかめない。
休みの日にやる事が進まない。
それが気になるところである。

私にはみんな同じになる活動とはなんなのか理解不能である。
そんな活動している奴いるのかというのが驚きである。
そしてそれってどういう活動なのか想像出来ない。
そんなふりしているだけなんじゃあないのかと思う。
ここまでくると単に嫌がらせにしか思えない。
世の中にはそんな不思議な奴がいるとしか思えない。
そんな不思議な活動が人間ですと言われても私には信じられない。
それが大阪の都会の不思議なところである。
私としては私はそんな奴から離れたいだけである。
もう私は伊豆の三島にいるのであって大阪にいるわけではない。
もういい加減こんなストレスやめて欲しい。
それが本音である。
私としてはまっすぐ生きたいのであって
都会の大阪のねじ曲がった神経なんて知らない。
私としてはみんな同じになる活動とは神経ひねくれているぐらいしかない。
まともな神経じゃあない。
だって私自身がみんな同じになる活動なんて想像出来ないからである。
そんな暇あったら読書してた方がマシである。
それなのに本当にみんな同じになる活動なんてありなんだろうかと思う。
私にはやればやるほど違ってくるとしか思えない。
それがアイデンティティだと思う。
じゃあなきゃあアイデンティティなんて存在しない。
みんな同じなんて不可能な活動なんじゃあないのか私にはそう思える。
それなのにそれに固執しているのは教育者が悪くて私には全く責任が無い。
変な理想をかかげた教育者が悪い。
大学に行った時点で専門教育を受けるわけであって
どんどん個性的になる。それさえもわからない人が文句言っているだけであって
それなのに私に負担がかかるのは犯罪である。
そんな曲がった神経で私に負担をかけるのは私も変になりそうである。
それより子供のまっすぐな気持ちの方がまともである。
子供を見ててそう私は思う。
あまりに神経がひねくれている。
駿河湾の穏やかな水平線を見ていると
あんまりまともな会話さえ難しいのに他人はそれさえも気づかず
目の前は違った形をあらわし
それが私にもあらわれるべきなのか感慨深かった。

明日は仕事である。
ボチボチやりたい。
<<追記20180128end





2018年1月27日土曜日

雑記20180127

<<追記20180127
今日も仕事した。
明日は休みである。
私自身あんまりいい人生ではない。
ある意味不死鳥のようである。
逆境の哲学である。
生理的苦痛を言い出したらキリがない。
それでも出来る事がある。
多分それが人間なのだと思う。
それをやめたら終わりである。
なので自分自身振り返ればウソみたいである。
私自身真剣に生きているだけなのに
他人が考えられなくてもあんまりビックリしない。
それで真実が変わる事ない。
むしろ他人が不甲斐ないようにしか感じない。
それだけ人間同士は違うというだけである。
それなのにこんな状況を許しているのが苦痛ではある。
こんな状況を許していいのか私には理解不能である。
それでなおのこといい人生ではない。
あんまり未来も明るくない。
それが私の実感である。
それで私の四十代やら父の老後やら自分の仕事の事考える余裕もない。
なんかそういう事考えると暗くなりそうである。

他人が頼りにならないのが原因だと思う。
私にすれば女で
女にすれば男なんだろうと思う。
どっちもストレスで頼りにならない。ただそれだけのために続いている。
それで私が道を切り開く気も起こらない。
自分自身が不可能だからである。
それでどうして未来が明るいのか理解不能である。
結局最も大事なのは自分が対処できる事である。
それなのに他人に頼りにして頼りにならないのが原因である。
こんなつまらない話はない。
これのどこが暗くないのか私には理解出来ない。
それで私の四十代やら父の老後やら自分の仕事の事考える余裕もない。
これではちっとも落ち着かない。
当たり前と言えば当たり前である。

それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20180127end

2018年1月26日金曜日

雑記20180126

<<追記20180126
今日も仕事した。
とりあえず明日も出勤である。
あんまりいいようにいっていない。
そういう認識でいる。
幻聴もそうだし仕事もそうである。
私としてはやり過ごすしかない。
ただ台風が過ぎるのを待つしかない。
もう私がどうとかの次元を超えている。
物事は犯罪レベルである。
これで何んでみんな同じになるのか理解を超えている。
私としてはそうですかぐらいしかない。
私には全く無関係である。
なので今に至ってもサバサバしている。

今夜も読書と録画をしようと思っている。
7時から8時ぐらいまで録画を見て
8時ぐらいから読書している。

階級社会では資本家が計画立案して
中産階級は計画立案と生産とか実行を兼ねて
労働者が生産と実行をするとなっている。
まあそんな事あっても
何かしらの発想はあるはずである。
資産家に出来て中産階級や労働者に出来ないなんてあるのか疑問である。
私の不満は学習塾や予備校に行かないと学歴が良くならない事である。
それだけの出費をしないとありえないわけである。
それが階級社会を作っている気がする。
それを乗り越えればもっと新たな展開が待っている気がする。
何でもお金で済むのが間違っている。
努力で済むようにすべきである。
そうして新たなブルジョワジーが生まれる。
そうすると新たな世界が出来る。
そうしないと経済が良くならない気がする。
いつも決まったお金持ちにまかせているからデフレに抵抗出来ない気がする。
やっぱり新しいお金持ちにまかせるべきである。

それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20180126end

2018年1月25日木曜日

雑記20180125

<<追記20180125
今日も仕事した。
なんか他人に良いように振り回されている気はする。
他人が面白くても私はつまらない。
そんな状態が続いている気はする。
そんな手前私は私なりに面白く生きる必要にせまられている。
幻聴聞くたびにストレスだから
私の中では世界が終わっている。
それよりもっと大きな世界を求めている。
最近の夜は読書と録画である。
一番楽しい時のように思う。
それも幻聴で半減しているけど
ささやかな抵抗である。
もうちょっと楽しい人生はないのかと文句たらたらである。
他人が重荷である。

今日は仕事は他人に仕事を引き継げるように証拠を残せと言われた事を思い出した。
それもそうだけど
現実の仕事は色々複雑である。
その人にしか出来ない仕事もあるように思う。
それだけに協調性だけで仕事できる気がしない。
色々日頃から良く考えていないと対応できない。
それが私には仕事のような気がする。
考えるのをやめたら仕事じゃあない気がする。

いくら他人が続けたくても
私はいつも早く終わって欲しいのであり
そのギャップがストレスでもあり
物事には終了があるんじゃあないかと思うけど
続ける限り私はストレスであり全然つらい。
もう良い加減腹を据えて覚悟を決めた方がいいと思う。
いつまでこんな宙ぶらりんを続けて楽しいのか私には理解不能である。
しょうがないで終わりである。
考えるのは自由だけど私を振り回すのは重罪である。
もう結果は結果として受け止めるしかない。
それ以上とかそれ以下はどうでもいい。
要するに覚悟だけ必要である。
それ以上余計な事を考えたいのか理解不能である。
結果は結果である。

それでも明日はやってくる。
ボチボチやりたい。
<<追記20180125end